中2社会(歴史)の「明治維新と近代国家の成立」を、図と例題で1つずつ確かめるページです。1868年の五箇条の御誓文から、1890年の帝国議会が開かれるまでに、政治のしくみ・教育・軍隊・税・産業・暮らしがどう変わったかを、年号とともに学びます。どの見出しも「答え → 理由 → 例題」の順に書いています。紙に書いて練習したい人は、下の無料プリントを使ってください。
⏱ 30秒でわかる この単元の要点
- 1868年に五箇条の御誓文で方針を示した明治政府は、1869年の版籍奉還のあと、1871年の廃藩置県で藩を廃止して府と県を置いた。政府が全国を直接治める中央集権国家の基礎ができ、身分は皇族・華族・士族・平民に変わった
- 三大改革は、1872年の学制(満6歳以上の男女に小学校の教育)、1873年の徴兵令(満20歳になった男子に兵役の義務)、1873年からの地租改正(地価の3%の地租を土地の所有者が現金で納める)で、国民に教育・兵役・税の負担を求めた
- 富国強兵のため、富岡製糸場などの官営模範工場や鉄道で殖産興業を進め、文明開化で都市を中心に欧米の文化が広まった。1871年の岩倉使節団は条約の改正が認められず、国内の改革が先だと考えた
- 清とは1871年に対等な日清修好条規、朝鮮とは1876年に不平等な日朝修好条規を結んだ。北海道(1869年)、千島列島(1875年の樺太・千島交換条約)、小笠原諸島(1876年)、沖縄県(1879年)の範囲が決まった
- 1874年の民撰議院設立の建白書から自由民権運動が始まり、西南戦争のあと言論が中心になった。1881年の国会開設の勅諭を経て、1889年に大日本帝国憲法が発布され、1890年に帝国議会が開かれた。最初の選挙で選挙権をもったのは、直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子だった
つまずき注意:地租を納めるのは土地の所有者で、土地を耕す人ではない。文明開化は都市が中心で、農村の暮らしはあまり変わらなかった。琉球藩は1872年、沖縄県は1879年。大日本帝国憲法では、国の主権は天皇にあり、国民の権利は法律の範囲内で認められた。
領事裁判権と関税自主権を定めた日米修好通商条約(1858年)のいきさつは、中2社会「欧米の近代化とアジア侵略」で解説しています。
無料ダウンロード(登録不要)
▶ 明治維新と近代国家の成立 授業用プリント(全24ページ)
説明 1〜18ページ/確認問題 19〜21ページ/覚えることの一覧 22ページ/答えと解説 23・24ページ。この記事の見出しごとに、対応するページを書いています。
日本はなぜ、アジアで先に近代化できた? 明治維新の流れ
📄 プリント1ページ
答え:江戸幕府がたおれたあと、新しい政府は、欧米に負けない国をつくるため、政治のしくみ・教育・軍隊・税・産業・暮らしを次々に変え、国境を決め、憲法をつくって議会を開きました。こうして日本は、政治・教育・軍隊・産業などのしくみが整った近代国家になっていきました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1868年 | 五箇条の御誓文 |
| 1871年 | 廃藩置県 |
| 1873年 | 徴兵令・地租改正 |
| 1877年 | 西南戦争 |
| 1881年 | 国会開設の勅諭 |
| 1889年 | 大日本帝国憲法の発布 |
| 1890年 | 帝国議会が開かれる |
理由:前の単元で学んだように、日本は開国して不平等な条約を結び、江戸幕府がたおれて新しい政府ができました。そのころアジアでは、欧米の国々の植民地(ほかの国に支配された土地)が広がっていました。だから新しい政府は、欧米に負けない国をつくろうとしたのです。この記事の見出しは、新しい政府 → 三大改革 → 富国強兵 → 外交と国境 → 自由民権運動 → 憲法と議会、の順に進みます。
明治時代は1868〜1912年です。世紀の数え方:19世紀は1801〜1900年なので、1868年も1890年も19世紀です。
まちがえやすい
✕ 1890年の帝国議会は、20世紀のできごと → ◯ 1890年は19世紀(1801〜1900年)
基本1868年の五箇条の御誓文と、1890年の帝国議会は、それぞれ何世紀のできごとですか。
19世紀は1801〜1900年です。2つとも、この範囲に入ります。
答え:どちらも19世紀
標準次のできごとを、古い順に並べなさい。ア 西南戦争 イ 廃藩置県 ウ 大日本帝国憲法の発布 エ 徴兵令
年を書き出します。イ 1871年、エ 1873年、ア 1877年、ウ 1889年。
答え:イ → エ → ア → ウ
新しい政府の出発:五箇条の御誓文・廃藩置県・身分制度
📄 プリント2・3ページ
答え:江戸幕府がたおれたあとの明治政府が進めた大きな変革を明治維新といい、目標は欧米に負けない近代国家をつくることでした。1868年に五箇条の御誓文で方針を示し、1871年の廃藩置県で政府が全国を直接治める中央集権国家の基礎をつくりました。
五箇条の御誓文:1868年に、新しい政府が示した政治の方針です。天皇が神々に誓うという形で示されました。五つの条のうち、3つを話し言葉に言いかえると、次のようになります。
| ことば | 言いかえ |
|---|---|
| 会議 | 政治は、会議を開いて、みんなの意見で決めよう |
| 身分 | 身分の上下にかかわらず、心を一つにして国を治めよう |
| 世界 | 知識を世界に学び、国を栄えさせよう |
同じころ、民衆には、一揆やキリスト教を禁じる立て札(五榜の掲示)を出しました。江戸時代と同じ禁止です。また、1868年に江戸を東京と改め、元号を明治としました。翌1869年に天皇が東京に移り、東京が首都になりました。
藩をなくして県を置く:江戸時代、全国は大名が治める藩に分かれていました。新しい政府は、全国を一つにまとめて治めるしくみが必要だと考えました。
- 1869年、版籍奉還:藩主(大名)に、土地(版)と人民(籍)を天皇に返させた
- でも、もとの藩主がそのまま藩を治めたので、政治のしくみはあまり変わらなかった
- 1871年、廃藩置県:藩を廃止して府と県を置き、政府が任命した府知事・県令を東京から送って治めさせた
- 政府が全国を直接治める中央集権国家の基礎ができた
政府の中心は、倒幕を進めた薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩の出身者がしめました。これを藩閥政府とよびます。
| 江戸時代 | 明治 |
|---|---|
| 天皇の一族 | 皇族 |
| 公家・大名 | 華族 |
| 武士 | 士族 |
| 百姓・町人 | 平民 |
皇族以外はみな平等とされ(四民平等)、平民も名字を名のり、職業や住む所を自由に選び、身分をこえて結婚できるようになりました。1871年の解放令では、江戸時代に「えた身分」「ひにん身分」とされて差別されてきた人々の呼び名を廃止し、身分も職業も平民と同じとしました。しかし、結婚や就職、住む所などでの差別は続き、生活は苦しいままでした。士族は、刀を差すことを禁じられ(廃刀令。1876年)、政府から受ける給料も失って、不満をもつ人が多くなりました。
覚え方:「御誓文は、会議と学びで国を興す」「版籍で返し、廃藩で直接治める」。
まちがえやすい
✕ 御誓文で、民衆の暮らしの決まりもすぐ変わった → ◯ 民衆には、江戸時代と同じ禁止を示した
基本五箇条の御誓文と同じころ、民衆に出された立て札は何ですか。また、何を禁じていましたか。
民衆には、江戸時代と同じ禁止が示されました。
答え:五榜の掲示。一揆やキリスト教を禁じていた。
基本江戸時代の「公家・大名」「百姓・町人」は、明治になってそれぞれ何とよばれるようになりましたか。
身分の呼び名の表で確かめます。
答え:公家・大名=華族、百姓・町人=平民
三大改革① 学制:子どもたちの暮らしはどう変わった?
📄 プリント4ページ
答え:近代国家の土台をつくるため、政府は国民に教育・兵役・税の3つの負担を求めました。これを三大改革(学制・徴兵令・地租改正)といいます。その1つ目の学制は、1872年に、満6歳以上の男女すべてに小学校の教育を受けさせることにした制度です。
| 江戸時代の寺子屋 | 学制の小学校 | |
|---|---|---|
| 学ぶ場所 | 寺子屋 | 全国につくられた小学校 |
| 学ぶ内容 | 読み・書き・そろばん | 小学校の教育 |
| 学ぶ人 | 通うかどうかは、それぞれの家が決めた | 満6歳以上の男女すべて |
理由(初めは通わない子が多かった):小学校の授業料は家が負担し、子どもは家の大事な働き手でした。そのため、初めは通わない子どもが多く、学校をこわす一揆も起きました。
国のねらいと、家の事情:政府が全国に小学校をつくったのは、近代国家の土台をつくるためでした。ところが、家の側から見ると、事情はちがいました。
| 国(政府)の立場 | 家の立場 | |
|---|---|---|
| 子どもは | 国の土台をつくる、これからの国民 | 家の大事な働き手 |
| お金は | 全国に学校をつくる | 授業料を家が負担する |
覚え方:「6歳から、男女みんな小学校へ」。
まちがえやすい
✕ 学制の小学校の授業料は、国が全部負担した → ◯ 授業料は家が負担した
標準江戸時代の寺子屋と、学制の小学校で、「学ぶ人」はどうちがいますか。
表の「学ぶ人」の行をくらべます。
答え:寺子屋は通うかどうかを家が決めたが、学制の小学校は満6歳以上の男女すべてが対象。
標準学制について、国(政府)の立場と家の立場では、子どもをどう見ていましたか。それぞれ書きなさい。
表の「子どもは」の行で確かめます。
答え:国は「国の土台をつくる、これからの国民」、家は「家の大事な働き手」と見ていた。
三大改革② 徴兵令と③ 地租改正:兵役と税の負担
📄 プリント5・6ページ
答え:1873年の徴兵令は、満20歳になった男子に、士族と平民の区別なく兵役の義務を負わせ、国民からなる近代的な軍隊をつくりました。同じ1873年からの地租改正は、地価の3%の税(地租)を、土地の所有者が現金で納めることにした改革です。
| 三大改革 | 年 | 国民に求めた負担 |
|---|---|---|
| 学制 | 1872年 | 教育 |
| 徴兵令 | 1873年 | 兵役 |
| 地租改正 | 1873年から | 税 |
徴兵令:江戸時代、戦うのは武士の仕事でした。新しい政府は、欧米に負けない強い軍隊をつくるため、国民に兵役の義務を負わせました。
| 江戸時代 | 徴兵令の後 | |
|---|---|---|
| 戦う人 | 武士 | 身分の区別なく、満20歳になった男子 |
| 軍隊 | 武士の軍隊 | 国民からなる、国の軍隊 |
| 兵役の負担 | 国民には求められなかった | 満20歳になった男子とその家 |
初めは、家のあとつぎや、お金を納めた人などは、兵役をのがれることができました。働き手をうばわれる農民は、各地で反対の一揆を起こしました。徴兵令でつくった政府の軍隊は、のちの1877年の西南戦争で、士族の反乱をしずめます。
士族に起きた変化:1871年の廃藩置県で政府が全国を直接治めるようになり、1873年の徴兵令で戦う役目が国民の男子にも負わされ、1876年の廃刀令で刀を差せなくなりました。このころ、政府から受ける給料も失い、不満をもつ士族が多くなりました。
地租改正:江戸時代の年貢は、その年の収穫高をもとに、おもに米で、村ごとに納めるものでした。新しい政府は、この税のしくみを変えました。土地の価格(地価)を決めて地券(土地の価格と持ち主を書いて、政府が土地の所有者にわたした証書)を発行し、地価の3%の税(地租)を、土地の所有者が現金で納めることにしました。
| 江戸時代の年貢 | 地租改正の後の地租 | |
|---|---|---|
| もとにする物 | 収穫高 | 地価 |
| 納める物 | おもに米 | 現金 |
| 納める人 | 村ごと | 土地の所有者 |
地租改正の結果:政府の収入は安定しましたが、農民の負担は、江戸時代とほとんど変わりませんでした。各地で、地租改正に反対する一揆が起きたので、1877年、政府は地租を地価の2.5%に引き下げました。
江戸時代とくらべるときは、「だれが」「何を」負担したかを、江戸時代と明治で並べて見ます。学制は「子どもを小学校に通わせる家」、徴兵令は「兵役を負う男子とその家」の負担がふえました。
覚え方:「20歳の男子が、身分をこえて兵役へ」「地価の3%を、持ち主が現金で」。
まちがえやすい
✕ 地租を納めるのは、土地を耕す人 → ◯ 土地の所有者
標準三大改革の学制・徴兵令・地租改正は、それぞれ国民に何の負担を求めましたか。
上の三大改革の表で確かめます。
答え:学制=教育、徴兵令=兵役、地租改正=税
標準地価が2000円の土地があります。地租が地価の3%のとき、地租はいくらですか。また、1877年に地価の2.5%に引き下げられた後は、いくらになりますか。
3%のとき:2000×0.03=60(円)
2.5%のとき:2000×0.025=50(円)
引き下げで、10円少なくなります。
答え:3%のとき60円、2.5%に下がった後は50円
富国強兵・殖産興業と文明開化
📄 プリント7・8ページ
答え:政府は、経済を発展させて国を豊かにし(富国)、軍隊を強くする(強兵)という富国強兵を目標にして、近代的な産業を育てる殖産興業を進めました。都市を中心に欧米の文化や生活様式が広まったことを文明開化といいます。
三大改革とのつながりは、徴兵令が「強兵」、地租改正が政府の「お金」を支えるしくみです。
官営模範工場:政府が、欧米から技術者を招き、機械を買い入れてつくり、民間の工場の手本にした工場です。富岡製糸場は、1872年に群馬県につくられました。フランスの技術を取り入れ、生糸をつくりました。全国から集まった若い女性(工女)が技術を学び、各地に広めました。
| 分野 | 政府が進めたこと |
|---|---|
| 工場 | 富岡製糸場などの官営模範工場 |
| 交通 | 1872年、新橋〜横浜に鉄道が開通 |
| 通信 | 郵便の制度(1871年)・電信 |
| お金 | 貨幣の単位を円・銭・厘にした(1871年) |
| 江戸時代 | 明治 | |
|---|---|---|
| 建物 | 木造 | れんが造り |
| 明かり | ろうそく・行灯 | ガス灯 |
| 服 | 着物・まげ | 洋服・ざんぎり頭 |
| 乗り物 | かご | 人力車・馬車 |
牛肉を食べること(牛なべ)も広まり、新聞や雑誌も発行されました。1872年には、月の満ち欠けによる暦(太陰暦)にかわって、欧米と同じ暦の太陽暦を採用しました。
新しい考え方:福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、人は生まれながらに平等であることと、学問の大切さを説きました。中江兆民はフランスのルソーの考え(人民が国の主人)を紹介し、のちの自由民権運動に影響を与えました。
覚え方:「富国は産業、強兵は軍隊」「ガス灯・洋服・太陽暦は、都市から」。
まちがえやすい
✕ 文明開化で、全国の村の暮らしがすぐに洋風になった → ◯ 都市が中心で、農村では江戸時代とあまり変わらない暮らしが続いた
標準富国強兵のうち、「強兵」につながる三大改革の1つはどれですか。また、政府の「お金」を支えるしくみになった三大改革の1つはどれですか。
強い軍隊をつくったのは兵役の義務、国のお金になったのは税のしくみです。
答え:強兵=徴兵令、お金を支えるしくみ=地租改正
基本江戸時代の「かご」「ろうそく・行灯」「着物・まげ」は、明治になってそれぞれ何にかわりましたか。
暮らしの変化の表で確かめます。
答え:かご=人力車・馬車、ろうそく・行灯=ガス灯、着物・まげ=洋服・ざんぎり頭
岩倉使節団と、清・朝鮮との条約
📄 プリント9・10ページ
答え:1871年、不平等な条約の改正の話し合いと欧米の視察のため、岩倉使節団が欧米へ送られましたが、条約の改正は認められませんでした。清とは1871年に対等な日清修好条規、朝鮮とは1876年に朝鮮にとって不平等な日朝修好条規を結びました。
岩倉使節団:明治政府は、欧米の国々とは対等な関係をめざしました。そこで、不平等な条約(日本が領事裁判権を認め、関税自主権が無い)の改正を話し合うため、使節団を送りました。岩倉具視を代表に、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らが参加し、女子の留学生(津田梅子ら)も同行しました。
- 1871年、欧米へ出発した
- 各国で、条約の改正を話し合った
- 条約の改正は、認められなかった
- 欧米の進んだ工業や政治のしくみを視察した
- 1873年に帰国し、まず国内の改革を進めて国の力をつけることが先だと考えた
出来事は「目的 → 結果 → その後の考え」の順に整理すると、つながりが見えます。使節団の場合は、目的は条約の改正と視察、結果は改正できなかったこと、その後の考えは国内の改革が先、です。
| 年 | 使節団 | 国内で進んだ改革 |
|---|---|---|
| 1871年 | 欧米へ出発 | 廃藩置県・解放令 |
| 1872年 | 欧米を回る | 学制・富岡製糸場・鉄道(新橋〜横浜)・太陽暦 |
| 1873年 | 帰国 | 徴兵令・地租改正 |
清との条約:日清修好条規は、1871年に日本と清が、対等な立場で結んだ条約です。おたがいに領事裁判権を認めました。
朝鮮との関係:政府は、鎖国をしていた朝鮮に国交を求めましたが、朝鮮は応じませんでした。
- 西郷隆盛・板垣退助ら:武力を使ってでも朝鮮を開国させよう(征韓論)
- 大久保利通ら:国内の改革が先だ
- 1873年、西郷と板垣らは政府を去った
1875年、日本の軍艦が朝鮮の江華島の近くで朝鮮から砲撃を受け、反撃しました(江華島事件)。これをきっかけに、1876年に日朝修好条規を結んで、朝鮮を開国させました。朝鮮に日本の領事裁判権を認めさせるなど、朝鮮にとって不平等な条約でした。
| 日清修好条規 | 日朝修好条規 | |
|---|---|---|
| 相手 | 清 | 朝鮮 |
| 年 | 1871年 | 1876年 |
| 対等か | 対等 | 朝鮮にとって不平等 |
日本が欧米から結ばされたのと同じような条約を、朝鮮に結ばせたことになります。
覚え方:「条約は直らず、まず国内の改革」「清とは対等、朝鮮には不平等」。
まちがえやすい
✕ 岩倉使節団は、条約の改正に成功して帰国した → ◯ 改正は認められず、国内の改革が先だと考えた
標準岩倉使節団が出発した1871年から帰国した1873年までに、国内で進んだ改革を、年ごとに1つずつ答えなさい。
表の「国内で進んだ改革」の欄から、1つずつ選びます。
答え:例)1871年=廃藩置県、1872年=学制、1873年=徴兵令(ほかの答えも可)
標準次のできごとを、古い順に並べなさい。ア 日朝修好条規が結ばれる イ 西郷隆盛と板垣退助らが政府を去る ウ 江華島事件が起こる
年を書き出します。イ 1873年、ウ 1875年、ア 1876年。
答え:イ → ウ → ア
関税自主権と領事裁判権の違い:条約の改正で直したかった2つ
📄 プリント9ページ(2つの語)。2つをくらべる表はプリントにはありません
答え:幕末に結んだ条約で、日本は領事裁判権を「認めた」うえに、関税自主権が「無かった」ため、不平等な条約でした。領事裁判権は「外国人を、その国の領事がその国の法律で裁く権利」で、外国が持っていた権利です。関税自主権は「輸入品にかける税(関税)の割合を、自分の国で決める権利」で、日本が持っていなかった権利です。明治政府は、この2つを直す条約の改正をめざしました。
| 領事裁判権(治外法権) | 関税自主権 | |
|---|---|---|
| どんな権利 | 日本で罪をおかした外国人を、その国の領事が、その国の法律で裁く権利 | 輸入品にかける税の割合を、自分の国で決める権利 |
| 日本は | 認めた(外国人を日本の法律で裁けない) | 無かった(税の割合を日本だけで決められない) |
| 日本が困ったこと | 外国人が罪をおかしても、日本の法律で裁けない | 安い外国の品物が入っても、税を上げて国内の産業を守れない |
| 直した年 | 1894年に撤廃(なくした) | 1911年に回復(取り戻した) |
岩倉使節団(1871年)は改正を話し合いましたが、認められませんでした。改正ができたのは、日清戦争のころ(1894年、領事裁判権)と、日露戦争の後(1911年、関税自主権)です。くわしくは 中2社会「日清・日露戦争と近代産業の発展」で解説しています。
まちがえやすい
✕ 日本は関税自主権を認めた → ◯ 関税自主権は「無かった」。「認めた」のは領事裁判権
✕ 領事裁判権を「回復」した → ◯ 領事裁判権は「撤廃」(なくした)、関税自主権は「回復」(取り戻した)
基本次の①・②は、領事裁判権と関税自主権のどちらの説明ですか。① 輸入品にかける税の割合を、自分の国で決める権利 ② 日本で罪をおかした外国人を、その国の領事がその国の法律で裁く権利
「税」の話か、「裁判」の話かで分けます。
答え:①=関税自主権、②=領事裁判権
標準明治政府が、領事裁判権をなくそうとしたのはなぜですか。「日本の法律」という語を使って書きなさい。
領事裁判権を認めていると、だれが、どの国の法律で裁くことになるかを考えます。
答え:(例)日本で罪をおかした外国人を、日本の法律で裁くことができなかったから。
北の国境:北海道の開拓とロシアとの国境
📄 プリント11ページ
答え:1869年に蝦夷地を北海道と改めて開拓使を置き、開拓を進めました。ロシアとは、1875年の樺太・千島交換条約で、樺太をロシアの領土、千島列島を日本の領土としました。
- 1869年、蝦夷地を北海道と改め、開拓使という役所を置いて開拓を進めた
- 士族などが移り住み、ふだんは農業で土地を開き、北方の警備にもあたった(屯田兵)
- 開拓が進むと、先住民族のアイヌの人々は、土地や狩り・漁の場をうばわれ、伝統的な生活や文化を否定された
アイヌの人々は、日本語や日本風の名前を使うことを進められました。
幕末にロシアと結んだ日露和親条約で、択捉島から南を日本の領土、得撫島から北の千島列島をロシアの領土とし、樺太は両国の人々が住む所として、境を決めませんでした。
| 場所 | 日露和親条約のころ | 樺太・千島交換条約(1875年)の後 |
|---|---|---|
| 択捉島から南 | 日本の領土 | 日本の領土 |
| 千島列島(得撫島から北) | ロシアの領土 | 日本の領土 |
| 樺太 | 境を決めず、両国の人々が住む所 | ロシアの領土 |
理由(立場によるちがい):北海道の開拓は、政府から見れば「開拓を進め、北の守りを固める」ことでしたが、そこで暮らしてきたアイヌの人々から見れば、土地や狩り・漁の場、生活や文化を失うことでした。同じできごとも、立場によって見え方がちがうことに注意しましょう。
まちがえやすい
✕ 樺太・千島交換条約で、樺太も千島列島も日本の領土になった → ◯ 樺太はロシアの領土、千島列島は日本の領土になった
基本1869年に蝦夷地を何と改め、開拓を進めるためにどんな役所を置きましたか。
北の土地の名前と、開拓のための役所です。
答え:北海道と改め、開拓使を置いた
標準樺太・千島交換条約の後、樺太と千島列島は、それぞれどこの国の領土になりましたか。
表の「樺太・千島交換条約(1875年)の後」の欄で確かめます。
答え:樺太=ロシアの領土、千島列島=日本の領土
南の国境と、北方領土・竹島・尖閣諸島の歴史
📄 プリント12・13ページ
答え:琉球王国は、1872年に琉球藩、1879年に沖縄県となりました(琉球処分)。小笠原諸島は1876年に日本の領土であることを各国に通知し、認められました。明治の初めに、北海道・千島列島・小笠原諸島・沖縄県の範囲が日本の領土として決まりました。
琉球処分:琉球王国は、薩摩藩に支配される一方、清にも使いを送っていました。
- 1872年、政府は琉球王国を琉球藩とした
- 1879年、軍隊を送って沖縄県を置いた
- 清は、これに反対した
琉球の人々は、王国の政治や文化を失い、日本の制度に組みこまれました。
小笠原諸島:東京から南の太平洋にある島々です。1876年、日本の領土であることを各国に通知し、認められました。
| 場所 | 年 | 決まり方 |
|---|---|---|
| 北海道 | 1869年 | 蝦夷地を北海道と改め、開拓使を置いた |
| 千島列島 | 1875年 | 樺太・千島交換条約で日本の領土とした |
| 小笠原諸島 | 1876年 | 日本の領土であることを各国に通知した |
| 沖縄県 | 1879年 | 琉球藩を廃して、沖縄県を置いた |
北方領土・竹島・尖閣諸島:日本には、周りの国が占拠したり、領有権を主張したりしている島があります。ここでは、日本政府の立場を、歴史の経緯とともに学びます。北方領土は択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島、竹島は島根県、尖閣諸島は沖縄県にあります。
| 島 | 日本の領土になった経緯 | 今のようす(日本政府の立場) |
|---|---|---|
| 北方領土 | 日露和親条約で日本の領土であることが確かめられ、それから後もロシアの領土になったことは一度もない | 第二次世界大戦の終わりにソ連が占領し、今はロシアが不法に占拠している。日本は返還を求めて交渉を続けている |
| 竹島 | 1905年に島根県に編入した | 1950年代から韓国が不法に占拠している。日本は抗議を続けている |
| 尖閣諸島 | 1895年に沖縄県に編入した | 日本が有効に支配しており、解決しなければならない領有権の問題は存在しない。1970年代から中国などが領有権を主張している |
北方領土は日露和親条約、竹島は1905年、尖閣諸島は1895年と、3つの島の経緯を見比べておきましょう。明治に決めた国境が、今の領土をめぐる問題の背景になっています。
覚え方:「琉球藩から沖縄県へ、1872年から1879年」「北方領土は条約で、竹島は1905年、尖閣は1895年」。
まちがえやすい
✕ 琉球処分で、琉球は1872年に沖縄県になった → ◯ 1872年は琉球藩。沖縄県が置かれたのは1879年
標準次の場所を、日本の領土として範囲が決まった年の古い順に並べなさい。ア 沖縄県 イ 北海道 ウ 小笠原諸島 エ 千島列島
表の年を書き出します。イ 1869年、エ 1875年、ウ 1876年、ア 1879年。
答え:イ → エ → ウ → ア
標準尖閣諸島を沖縄県に編入した1895年と、竹島を島根県に編入した1905年は、それぞれ何世紀のできごとですか。
19世紀は1801〜1900年、20世紀は1901〜2000年です。
答え:1895年=19世紀、1905年=20世紀
自由民権運動と国会の開設
📄 プリント14・15ページ
答え:1874年に板垣退助らが民撰議院設立の建白書を出したことをきっかけに、国会を開き、国民が政治に参加する権利を求める自由民権運動が始まりました。1877年の西南戦争のあと、運動は武力でなく言論が中心になり、1881年に政府が国会開設の勅諭を出して、10年後(1890年)に国会を開くことを約束しました。
- 1873年、征韓論で意見が分かれ、西郷隆盛・板垣退助らが政府を去り、大久保利通らが政府に残った
- 1874年、板垣退助らが民撰議院設立の建白書を政府に出した
- 特権を失った士族が、各地で反乱を起こした
- 1877年、最も大きな反乱の西南戦争が起きた(鹿児島の士族らが西郷隆盛を中心に起こした)
- 徴兵令でつくった政府の軍隊が、これをしずめた
- 武力でなく、演説や新聞などの言論で政府を批判する運動が中心になった
民撰議院設立の建白書は、一部の藩閥の役人が政治を独占していると批判し、国民が選んだ議員による議会(国会)を早く開くよう求めた意見書です。
| 士族の反乱 | 自由民権運動 | |
|---|---|---|
| 方法 | 武力 | 演説や新聞などの言論が中心 |
| 動いたわけ | 特権を失ったことへの不満 | 国会を開き、政治に参加する権利を求めた |
前の見出しで出てきた中江兆民の考えも、運動に影響を与えました。
運動の広がり:
- 運動は、士族から、地主や商工業者、農民にも広がった
- 1880年、各地の代表が大阪に集まって国会期成同盟をつくり、国会の開設を求める署名を集めて政府に出した
- 1881年、政府は国会開設の勅諭を出した
- 1881年、板垣退助が自由党をつくった
- 1882年、大隈重信が立憲改進党をつくった
| 自由党 | 立憲改進党 | |
|---|---|---|
| つくった年 | 1881年 | 1882年 |
| 中心の人 | 板垣退助 | 大隈重信 |
| めざしたこと | 国会の開設に備えた政党 | イギリスのような議会政治 |
民間でも、多くの憲法草案がつくられました。東京の五日市で地域の人々が話し合ってつくった五日市憲法は、国民の権利を多く定めた憲法草案で、運動が民間にも広がっていたことがわかります。1884年には、不景気で生活に苦しむ埼玉県の秩父地方の農民たちが、借金の返済を待つことや税を減らすことを求めて大勢で立ち上がりました(秩父事件)。政府は軍隊を送ってしずめました。このころ運動の一部が激しくなり、政府の取りしまりも強まって、自由党は解散しました。
覚え方:「武力から言論へ、西南戦争のあと」「勅諭で約束、10年後に国会」。
まちがえやすい
✕ 西南戦争は、政府の軍隊が士族の軍隊に負けて終わった → ◯ 徴兵令でつくった政府の軍隊が、士族の反乱をしずめた
標準次のできごとを、古い順に並べなさい。ア 民撰議院設立の建白書が出される イ 立憲改進党がつくられる ウ 西南戦争が起こる エ 国会期成同盟がつくられる
年を書き出します。ア 1874年、ウ 1877年、エ 1880年、イ 1882年。
答え:ア → ウ → エ → イ
標準西南戦争のあと、自由民権運動の中心になったやり方は、士族の反乱とどうちがいますか。
「武力」と「言論」の2つの語を入れて書きます。
答え:士族の反乱は武力だったが、運動は演説や新聞などの言論が中心になった。
大日本帝国憲法と、最初の選挙・帝国議会
📄 プリント16・17ページ
答え:1889年、天皇が国民に与えるという形で大日本帝国憲法が発布され、国の主権は天皇にあり、国民の権利は法律の範囲内で認められました。1890年に帝国議会が開かれ、最初の衆議院議員選挙で選挙権をもったのは、直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子でした。
- 1882年、伊藤博文がヨーロッパへ行き、君主の権力が強いドイツ(プロイセン)の憲法を中心に調べた
- 1885年、内閣制度をつくり、伊藤博文が最初の内閣総理大臣になった
- 1889年、憲法が発布された
大日本帝国憲法は、1889年2月11日に発布されました。国民は臣民とされ、言論・出版・集会・結社・信教の自由などの権利は、法律の範囲内で認められました。アジアで初めての近代的な憲法で、日本は憲法に基づいて政治を行う立憲制の国家になりました。今の日本国憲法とのくらべは、中3の公民で学びます。
| だれが | 何をもつか |
|---|---|
| 天皇 | 国の主権(国の元首)。軍隊を指揮し、条約を結び、戦争を始めたり終えたりする |
| 帝国議会 | 法律や予算を決める |
| 内閣 | 天皇を助けて政治を行う |
| 裁判所 | 裁判を行う |
| 国民(臣民) | 言論・出版・集会・結社・信教の自由などの権利。ただし、法律の範囲内で認められた |
帝国議会の2つの院:1890年に開かれた帝国議会は、貴族院と衆議院の二院制でした。
| 貴族院 | 衆議院 | |
|---|---|---|
| 議員 | 皇族・華族や、天皇が任命した議員 | 国民が選挙で選んだ議員 |
最初の選挙:1890年の最初の衆議院議員選挙で選挙権をもったのは、直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子(人口の約1%)でした。今の選挙とくらべると、次のようになります。
| 1890年の最初の選挙 | 今の選挙 | |
|---|---|---|
| 年齢 | 満25歳以上 | 18歳以上 |
| 男女 | 男子だけ | 男女 |
| 税の条件 | 直接国税15円以上を納める | 税の条件はない |
選挙権をもつ人が限られていたのは、年齢・男女・税の3つの条件があったからです。くらべるときは、年齢・男女・税の1行ずつを、1890年と今で見比べると、変わった所がはっきりします。選挙で選ばれたのは衆議院の議員だけで、帝国議会は法律や予算を決めるところです。最初の選挙では、自由民権運動の流れをくむ政党(民党)が衆議院の多くの議席をしめ、予算などをめぐって政府と対立しました。
教育勅語:1890年に出された、天皇と国に忠義をつくす「忠君愛国」の道徳を示し、学校教育の柱にしたものです。
覚え方:「憲法は天皇主権、権利は法律の範囲内」「選挙権は、税15円以上の25歳以上の男子」。
まちがえやすい
✕ 最初の選挙では、国民みんなが投票できた → ◯ 一定の税を納める満25歳以上の男子だけが投票できた
基本1885年に内閣制度がつくられたとき、最初の内閣総理大臣になったのはだれですか。
ヨーロッパで憲法を調べた人物です。
答え:伊藤博文
標準1890年の最初の選挙と今の選挙をくらべて、年齢・男女・税の条件が、それぞれどう変わったかを答えなさい。
表の1890年と今の欄を、1行ずつ見比べます。
答え:年齢=満25歳以上から18歳以上、男女=男子だけから男女、税の条件=あった(15円以上)から無くなった
なぜアジアで先に近代化できた? クラゲチャートと年表
📄 プリント18ページ
答え:日本は、欧米の国々に植民地にされないよう、欧米のしくみを学んで、国内の改革を急いで進めたので、ほかのアジアの国々より先に近代化できました。ただし、国民の負担や、アイヌの人々・琉球の人々への支配、朝鮮への不平等な条約も生まれました。
| 足 | 理由 |
|---|---|
| ① 中央集権 | 版籍奉還と廃藩置県で、政府が全国を直接治めるしくみをつくった |
| ② 三大改革 | 学制・徴兵令・地租改正で、国の土台をつくった |
| ③ 富国強兵 | 官営模範工場や鉄道で産業を育て、強い国をめざした |
| ④ 欧米に学ぶ | 岩倉使節団を送り、文明開化で欧米の文化を取り入れた |
| ⑤ 憲法と議会 | 自由民権運動を受けて、大日本帝国憲法を定め、帝国議会を開いた |
クラゲチャートの足の5つを、①から順につなげて、頭の問い「なぜ、アジアで先に近代化できた?」に答えます。
| 年 | できごと | 年 | できごと |
|---|---|---|---|
| 1868年 | 五箇条の御誓文 | 1877年 | 西南戦争 |
| 1871年 | 廃藩置県 | 1879年 | 沖縄県の設置 |
| 1872年 | 学制 | 1881年 | 国会開設の勅諭・自由党 |
| 1873年 | 徴兵令・地租改正 | 1885年 | 内閣制度 |
| 1874年 | 民撰議院設立の建白書 | 1889年 | 大日本帝国憲法の発布 |
| 1876年 | 日朝修好条規 | 1890年 | 帝国議会 |
三大改革の学制・徴兵令・地租改正は、1872年から1873年に集中して出されました。
問いの答えの例:日本は、欧米の国々に植民地にされないよう、欧米のしくみを学んで、国内の改革を急いで進めたので、ほかのアジアの国々より先に近代化できました。政府が全国を直接治めるしくみをつくり、学制・徴兵令・地租改正で国の土台を整え、産業を育て、岩倉使節団を送り、文明開化で欧米の文化を取り入れました。さらに憲法を定めて議会を開き、近代国家のしくみを整えました。
まちがえやすい
✕ 近代化は、よいことだけが起こった → ◯ 国民の負担、アイヌの人々・琉球の人々への支配、朝鮮への不平等な条約も生まれた
標準1868年の五箇条の御誓文から、1890年の帝国議会まで、何年かかりましたか。
年の差:1890−1868=22(年)
答え:22年
✅ 一問一答で総チェック(20問)
問題を読んで、答えを頭の中で言ってからタップしましょう。答えが出ます。
-
1868年に新しい政府が示した、政治の方針を何といいますか。
答え:五箇条の御誓文
-
1869年に、藩主に土地と人民を天皇に返させたことを何といいますか。
答え:版籍奉還
-
1871年に藩をやめて府と県を置き、政府が任命した役人に治めさせた改革を何といいますか。
答え:廃藩置県
-
明治になって、江戸時代の武士はどの身分の呼び名になりましたか。
答え:士族
-
1872年に定められた、満6歳以上の男女に小学校の教育を受けさせる制度を何といいますか。
答え:学制
-
1873年に、満20歳になった男子に兵役の義務を負わせた法令を何といいますか。
答え:徴兵令
-
土地の価格と持ち主を書いて、政府が土地の所有者にわたした証書を何といいますか。
答え:地券
-
経済を発展させて国を豊かにし、軍隊を強くする、政府の目標を何といいますか。
答え:富国強兵
-
1872年に群馬県につくられた、フランスの技術を取り入れた官営模範工場は何ですか。
答え:富岡製糸場
-
『学問のすゝめ』で、人は生まれながらに平等であることを説いた人物はだれですか。
答え:福沢諭吉
-
1871年に、不平等な条約の改正の話し合いと視察のため、欧米へ送られた一行を何といいますか。
答え:岩倉使節団
-
1875年に日本の軍艦が朝鮮から砲撃を受け、反撃したできごとを何といいますか。
答え:江華島事件
-
1875年にロシアと結び、樺太をロシア、千島列島を日本の領土とした条約を何といいますか。
答え:樺太・千島交換条約
-
1872年に琉球藩を置き、1879年に沖縄県を置いた一連のことを何といいますか。
答え:琉球処分
-
1877年に鹿児島の士族らが西郷隆盛を中心に起こした、最も大きな士族の反乱を何といいますか。
答え:西南戦争
-
1881年に板垣退助がつくった政党を何といいますか。
答え:自由党
-
1881年に政府が出した、10年後に国会を開くことを約束したものを何といいますか。
答え:国会開設の勅諭
-
1889年に天皇が国民に与えるという形で発布された憲法を何といいますか。
答え:大日本帝国憲法
-
1890年に開かれた、貴族院と衆議院の二院制の議会を何といいますか。
答え:帝国議会
-
1884年に、生活に苦しむ埼玉県の農民たちが借金の返済を待つことなどを求めて立ち上がった事件を何といいますか。
答え:秩父事件
まとめ
1868年の五箇条の御誓文で方針を示した明治政府は、廃藩置県(1871年)で政府が全国を直接治める中央集権国家の基礎をつくり、学制・徴兵令・地租改正の三大改革で、国民に教育・兵役・税の負担を求めました。富国強兵をめざして官営模範工場や鉄道で産業を育て、文明開化で欧米の文化も取り入れました。岩倉使節団は条約の改正ができず、国内の改革が先だと考えました。改正の目標は、日本が認めた領事裁判権をなくすことと、無かった関税自主権を取り戻すことでした。清とは対等な日清修好条規、朝鮮とは不平等な日朝修好条規を結び、北海道・千島列島・小笠原諸島・沖縄県の範囲を決めました。西南戦争のあと自由民権運動が言論中心になり、国会開設の勅諭(1881年)を経て、大日本帝国憲法(1889年)が発布され、1890年に帝国議会が開かれました。プリントの確認問題で、年号の順と記述を手を動かして練習してみてください。
無料ダウンロード(登録不要)
▶ 明治維新と近代国家の成立 授業用プリント(全24ページ)
説明 1〜18ページ/確認問題 19〜21ページ/覚えることの一覧 22ページ/答えと解説 23・24ページ

コメント