⏱ 30秒でわかる この単元の要点
- 701年の大宝律令(律=刑罰のきまり、令=政治のしくみや税などのきまり)で律令国家ができ、中央は太政官、地方は国司(都から来た貴族)と郡司(地方の豪族)が治めた
- 710年、唐の長安にならって奈良に平城京がつくられた。都が平城京にあった約80年間が奈良時代
- 班田収授法=6年ごとの戸籍で6歳以上に口分田をあたえ、死ぬと返させる。租は稲(国府へ)、調は特産物(都へ)、庸は都で働くかわりの布(都へ)
- 743年の墾田永年私財法で、開墾した土地がいつまでも自分の物になり、貴族・寺社・豪族の荘園が広がって公地公民がくずれ始めた
- 聖武天皇は国分寺と東大寺の大仏で国を守ろうとした。遣唐使がもたらした唐の文化の影響を受けた国際色豊かな天平文化が栄えた
つまずき注意:国司は都から送られた貴族、郡司は地元の豪族。調と庸は自分たちで都まで運び、租は地方の役所(国府)へ納める。
中1社会(歴史)の「律令国家と奈良時代」を、図と表と例題で1つずつ確かめるページです。この記事では、律令国家のしくみ・平城京と奈良時代・租・調・庸の違い・墾田永年私財法・聖武天皇・天平文化を順に説明します。どの見出しも「答え → 図や表 → 理由 → 例題」の順に書いています。紙に書いて練習したい人は、下の無料プリントを使ってください。
無料ダウンロード(登録不要)
このプリントは「古代国家の成立」の単元全体(全18ページ)です。この記事の内容は説明 6〜11ページ/確認問題 14・15ページ。そのほか、覚えることの一覧 16ページ/答えと解説 17・18ページ。説明 2〜5ページ(聖徳太子・大化の改新など)は、飛鳥時代の記事で解説しています。
律令国家とは? 大宝律令と国のしくみ
📄 プリント6ページ
答え:701年の大宝律令は、唐の律令にならってつくられた法律です。律令にもとづいて政治を行う国を律令国家といいます。中央では太政官が政治の中心になり、全国は国・郡・里に分かれて、国には都から国司が送られました。
律は刑罰のきまり、令は政治のしくみや税などのきまりです。
- 天皇の下の太政官(だいじょうかん)が、政治の中心として決める。
- 太政官の下のいくつかの省が、仕事を分けて受けもつ。
- 全国は国・郡・里に分かれ、国には都から国司が送られる。国の役所(国府)で政治を行う。
- 郡は郡司(地方の豪族)が治める。里の人々に命令が届く。
| だれがなる | どこから | どこで | |
|---|---|---|---|
| 国司 | 貴族 | 都から送られる | 国府で政治を行う |
| 郡司 | 地方の豪族 | その地方の人が任命される | 郡の役人として働く |
九州北部には大宰府(だざいふ。「大」に点はつけません)が置かれ、外国との交渉(外交)と九州の防衛にあたりました。
理由(大化の改新の方針が、しくみになった):大化の改新(645年)では、それまで皇族や豪族が支配していた土地と人々を国が直接支配する公地公民という方針が示されました。この方針を全国で動かすしくみが、大宝律令で整いました。文字のきまり(律令)で、天皇を中心に全国を治めるしくみができたのです。
| 大化の改新の方針 | 大宝律令のしくみ | |
|---|---|---|
| 土地と人々 | 公地公民 | 戸籍と口分田 |
| 政治 | 天皇を中心とする国 | 太政官と省 |
| 地方 | 地方も国が直接治める | 国・郡・里と、国司・郡司 |
まちがえやすい
✕ 国司には、その地方の豪族が任命された → ◯ 国司は都から送られた貴族。地方の豪族は郡司
基本律令国家で、天皇の下に置かれ、政治の中心となった役所を何といいますか。
天皇の下で政治を決める役所です。いくつかの省が、その下で仕事を分けて受けもちました。
答え:太政官
標準ある国の国府で政治を行っていたのは、都から送られた役人です。この役人を何といいますか。また、その国の郡を治めた役人は、どんな人がなりましたか。
都から送られた貴族が国司、その地方の豪族が任命されたのが郡司です。
答え:国司。郡司は、地方の豪族がなった。
発展大化の改新で示された公地公民の方針は、大宝律令のもとで、土地と人々については何というしくみで動かされましたか。
上の表で、「土地と人々」の行を見ます。
答え:戸籍と口分田(のしくみ)
平城京と奈良時代:唐の長安にならった都
📄 プリント7ページ
答え:710年、唐の都長安にならって、奈良に平城京がつくられました。都が平城京にあった約80年間を奈良時代といいます(794年に平安京へ移ります)。
| 長安にならった所 | 平城京 |
|---|---|
| 碁盤の目の道路 | 道路が区画された |
| 北の中央に宮 | 平城宮(天皇の住まいと役所) |
| 南へ大通り | 朱雀大路(すざくおおじ) |
| 東と西に市 | 東市・西市 |
理由(都に何が集まった?):平城京は律令国家の中心でした。全国から、調・庸などの品物が運ばれ(次の見出し)、東市・西市で産物が売り買いされ、和同開珎などの貨幣がつくられて市で使われました。
覚え方:「なんと(710)りっぱな平城京」。
まちがえやすい
✕ 平城京は、今の京都につくられた → ◯ 奈良につくられた(京都は次の単元の平安京)
基本平城京の市で使われた貨幣を何といいますか。
和同開珎などの貨幣がつくられて、東市・西市で使われました。
答え:和同開珎
標準平城京の北の中央にあった、天皇の住まいと役所がある場所と、そこから南へのびる大通りを、それぞれ何といいますか。
長安にならって、北の中央に宮を置き、そこから南へ大通りをつくりました。
答え:宮は平城宮、大通りは朱雀大路
理由奈良時代とは、いつからいつまでの、どんな期間をいいますか。
「平城京」と「約80年間」を入れて書きます。
答え:710年から、都が平城京にあった約80年間(794年に平安京へ移るまで)。
租・調・庸の違いと、班田収授法
📄 プリント8ページ
答え:律令のもとでは、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)で人々に田があたえられ、税を納めました。租は稲(地方の役所へ)、調は地方の特産物(自分たちで都まで運ぶ)、庸は都で働くかわりの布(自分たちで都まで運ぶ)です。
班田収授法:戸籍にもとづいて、人々に口分田(くぶんでん)という田をあたえ、死ぬと国に返させるしくみです。
- 6年ごとに戸籍をつくる。
- 6歳以上のすべての男女に口分田をあたえる。
- 口分田を受けた人は税を納め、死ぬと口分田を国に返す(売り買いはできない)。
| 名前 | 何を | どこへ・どうする |
|---|---|---|
| 租 | 口分田の収穫の約3%の稲(100束なら約3束) | 地方の役所(国府)へ |
| 調 | 地方の特産物(絹・糸・海産物など) | 自分たちで都まで運ぶ |
| 庸 | 都で働く(労役)かわりの布 | 自分たちで都まで運ぶ |
| 雑徭(ぞうよう) | 地方で、1年に60日以内の労役(土木工事など) | ― |
| 兵役 | 兵士としての訓練。都の警備や、九州北部の守り(防人。3年間)につく者もいた | 武器や食料は自分で用意 |
理由(3つの違いを比べる):租は稲で、納める先は地方の役所(国府)です。これに対して、調と庸は、どちらも自分たちで都まで運びました。調は地方の特産物、庸は都で働くかわりの布で、納める物がちがいます。だから、都には調・庸などの品物が全国から集まりました。調・庸・雑徭・兵役は、おもに成人の男子にかけられました(租は口分田を受けた人にかかります)。
覚え方:「租は稲、調は特産物、庸は布」。
木簡(もっかん):都に運ばれる税の品物などには、どこの国・郡・里のだれが、何を、どれだけ納めたかを書いた木の札、木簡が付けられました。平城京の跡などから、たくさん見つかっています。防人は、白村江の戦いのあと、九州北部の守りについた兵士です。
まちがえやすい
✕ 口分田は、あたえられた人の物になり、子どもに残せた → ◯ 死ぬと国に返した
基本地方の特産物(絹・糸・海産物など)を、自分たちで都まで運んで納める税を何といいますか。
3つの税のうち、特産物を納めるのは調です。
答え:調
標準口分田の収穫が200束のとき、租として納める稲は、約何束ですか(租は収穫の約3%)。
200束の3%を求めます。
200×0.03=6(束)
答え:約6束
発展調と庸のちがいを、「何を納めるか」で説明しなさい。
どちらも自分たちで都まで運びます。納める物をくらべて書きます。
答え:調は地方の特産物(絹・糸・海産物など)を納め、庸は都で働くかわりの布を納める。
口分田が足りなくなると? 墾田永年私財法と荘園
📄 プリント9ページ
答え:743年、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が出され、新しく開墾した土地は、いつまでも自分の物にしてよいことになりました。貴族・寺社・豪族が私有地を広げ、公地公民の原則がくずれ始めました。
租・調・庸などの負担は重く、たえられずに口分田を捨てて逃げ出す人もいました。『万葉集』の山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」には、農民の苦しいくらしがよまれています。
理由(土地のきまりが変わるまで):
- 人口が増え、荒れた田も増えた。
- 口分田が足りなくなった。国にあたえる土地が足りない。
- 743年、墾田永年私財法が出された(新しく開墾した土地は、いつまでも自分の物にしてよい)。
- 人手と費用のある貴族・寺社・豪族が開墾して、私有地を広げた。これらの私有地は、のちに荘園(しょうえん)とよばれる。
- 公地公民(それまで皇族や豪族が支配していた土地と人々を、国が直接支配すること)の原則が、くずれ始めた。
漢字で読む:
| 墾田 | 永年 | 私財 |
|---|---|---|
| 新しく開墾した田 | いつまでも | 自分の財産 |
2つの法のくらべ:
| 班田収授法 | 墾田永年私財法 | |
|---|---|---|
| 田はだれの物 | 国 | 開墾した田は、開墾した人 |
| 子どもに残せるか | 残せない(死ぬと国に返す) | いつまでも自分の物 |
| 土地を広げられた人 | ― | 人手と費用のある貴族・寺社・豪族 |
まちがえやすい
✕ 墾田永年私財法で、農民がみんな豊かになった → ◯ 開墾できたのはおもに貴族・寺社・豪族で、公地公民がくずれ始めた
基本貴族・寺社・豪族などが広げた私有地は、のちに何とよばれるようになりましたか。
墾田永年私財法のあと、私有地が広がりました。
答え:荘園
標準墾田永年私財法のもとで、私有地を広げたのは、おもにどんな人たちでしたか。それはなぜですか。
開墾には何が必要だったかを考えます。
答え:貴族・寺社・豪族。開墾するための人手と費用があったから。
発展班田収授法と墾田永年私財法では、死んだあとの田の扱いがどうちがいますか。
上の「2つの法のくらべ」の表の、「子どもに残せるか」の行を見ます。
答え:班田収授法では、死ぬと田を国に返した。墾田永年私財法では、開墾した田はいつまでも自分の物になった。
聖武天皇は、なぜ大仏をつくった?
📄 プリント10ページ
答え:奈良時代の中ごろ、病気の流行・ききん・反乱が続き、社会が不安定になりました。聖武天皇は、仏教の力で国を守り、社会の不安をしずめようとして、国ごとに国分寺と国分尼寺、都に東大寺を建て、金銅の大仏をつくらせました。
| どこに | 建てた寺 |
|---|---|
| 都(平城京) | 東大寺と大仏 |
| 地方の国ごと | 国分寺・国分尼寺 |
国は、国司が政治を行う単位です。
行基と鑑真:
| 行基 | 鑑真(がんじん) | |
|---|---|---|
| どこの人 | 日本の僧 | 唐(中国)の高僧 |
| したこと | 民衆の間で仏教を広め、橋や用水路・道などをつくった | 正しい仏教の教え(戒律)を伝えるため、何度も渡航に失敗し、目が見えなくなりながらも来日した |
| 朝廷との関係 | はじめ活動を取りしまられたが、のちに大仏づくりに協力した | 来日して、教えを伝えた |
| 関係する寺 | 東大寺 | 唐招提寺(とうしょうだいじ)を開いた |
理由(なぜ、行基の協力が必要だった?):大仏づくりには、多くの人の力が要りました。民衆にしたわれていた行基に、朝廷が協力を求めました。
覚え方:「国ごとに国分寺、都に東大寺と大仏」。
まちがえやすい
✕ 鑑真は、遣唐使として唐にわたった日本の僧 → ◯ 唐から来日した僧
基本聖武天皇が、仏教の力で国を守ろうとしたのは、当時どんなことが続いていたからですか。
奈良時代の中ごろの社会のようすです。
答え:病気の流行・ききん・反乱が続き、社会が不安定だったから。
標準唐から来日し、唐招提寺を開いた僧はだれですか。また、朝廷が大仏づくりに協力を求めた、民衆にしたわれていた日本の僧はだれですか。
上の表で、「どこの人」の行を見ます。
答え:唐から来日した僧は鑑真、協力を求められた僧は行基
天平文化は、なぜ国際色豊かになった?
📄 プリント11ページ
答え:天平文化(てんぴょうぶんか)は、聖武天皇のころに栄えた文化で、遣唐使がもたらした唐の文化の影響を強く受けた、国際色豊かな仏教文化です。
理由(遣唐使と正倉院の宝物):遣唐使は、630年から、唐の制度や文化を学ぶためにたびたび送られました。
- 西アジアやインドの品物や文化が、シルクロード(絹の道)を通って唐の都長安へ伝わる。
- 遣唐使が、唐の文化や品物を日本へ持ち帰る。
- 聖武天皇が使った品々などが、東大寺の正倉院(しょうそういん)に納められた。
正倉院は、三角形に近い形の木材を組み合わせた校倉造(あぜくらづくり)の倉です。納められた宝物の中には、西アジアやインドの影響を受けた物もあります。
書物:
| 書物(年) | 種類 | 内容 |
|---|---|---|
| 『古事記』(712年) | 歴史書 | 神話や伝承、国の成り立ち、天皇が国を治めてきた由来などをまとめた |
| 『日本書紀』(720年) | 歴史書 | 『古事記』と同じく、神話や伝承、国の成り立ち、天皇が国を治めてきた由来などをまとめた |
| 『風土記』 | 地理書 | 国ごとに、地名の由来・産物・伝説などをまとめた |
| 『万葉集』 | 和歌集 | 天皇や貴族から、防人や農民の歌まで、約4500首を集めた |
万葉仮名:漢字の音を使って、日本語を書き表しました(万葉仮名)。例:「はる」を「波流」、「やま」を「夜麻」と書きました。
まちがえやすい
✕ 『万葉集』は、天皇や貴族の歌だけを集めた → ◯ 防人や農民の歌も集められている
基本『古事記』と『日本書紀』は、書物の種類では何にあたりますか。
上の「書物」の表で、「種類」の列を見ます。
答え:歴史書
標準『万葉集』には、どんな人たちの歌が集められていますか。
天皇や貴族だけではありません。
答え:天皇や貴族から、防人や農民まで、さまざまな人の歌
理由天平文化が国際色豊かな文化といわれるのは、なぜですか。「遣唐使」を使って書きなさい。
「唐の文化」と「持ち帰る」を入れて書きます。
答え:遣唐使が、唐の文化や、唐に伝わった西アジアやインドの品物を日本へ持ち帰り、その影響を強く受けたから。
✅ 一問一答で総チェック(20問)
問題を読んで、答えを頭の中で言ってからタップしましょう。答えが出ます。
-
701年に、唐の律令にならってつくられた法律を何といいますか。
答え:大宝律令
-
律令にもとづいて政治を行う国を何といいますか。
答え:律令国家
-
律令国家で、天皇の下に置かれ、政治の中心となった役所を何といいますか。
答え:太政官
-
国の役所で政治を行うために、都から送られた貴族を何といいますか。
答え:国司
-
郡を治めた、地方の豪族がなった役人を何といいますか。
答え:郡司
-
九州北部に置かれ、外交と九州の防衛にあたった役所を何といいますか。
答え:大宰府
-
710年に、唐の長安にならって奈良につくられた都を何といいますか。
答え:平城京
-
都が平城京にあった約80年間を、何といいますか。
答え:奈良時代
-
平城京の北の中央にあった、天皇の住まいと役所のある場所を何といいますか。
答え:平城宮
-
平城京で、平城宮から南へのびていた大通りを何といいますか。
答え:朱雀大路
-
平城京の市などで使われた貨幣を何といいますか。
答え:和同開珎
-
戸籍にもとづいて人々に田をあたえ、死ぬと国に返させるしくみを何といいますか。
答え:班田収授法
-
6歳以上の男女にあたえられ、死ぬと国に返された田を何といいますか。
答え:口分田
-
口分田の収穫の約3%の稲を、地方の役所(国府)に納める税を何といいますか。
答え:租
-
地方の特産物(絹・糸・海産物など)を、自分たちで都まで運んで納める税を何といいますか。
答え:調
-
都で働くかわりに、自分たちで都まで運んで納める布の税を何といいますか。
答え:庸
-
743年に出された、新しく開墾した土地をいつまでも自分の物にしてよいと認めた法律を何といいますか。
答え:墾田永年私財法
-
貴族・寺社・豪族が広げた私有地は、のちに何とよばれましたか。
答え:荘園
-
聖武天皇が、都の東大寺とともに、国ごとに建てさせた寺を何といいますか。
答え:国分寺
-
何度も渡航に失敗しながら唐から来日し、唐招提寺を開いた僧はだれですか。
答え:鑑真
まとめ
701年の大宝律令で、律令にもとづいて政治を行う律令国家ができ、中央の太政官と、国司・郡司が全国を治めました。710年には唐の長安にならって平城京がつくられ、都が平城京にあった約80年間が奈良時代です。人々は班田収授法で口分田をあたえられ、租(稲を地方の役所へ)・調(特産物を都へ)・庸(布を都へ)などの税を納めました。負担が重く口分田も足りなくなると、743年に墾田永年私財法が出され、荘園が広がって公地公民がくずれ始めました。聖武天皇は、国分寺と東大寺の大仏で国を守ろうとし、遣唐使がもたらした唐の文化の影響を受けた国際色豊かな天平文化が栄えました。プリントの確認問題で、税の表や、国司と郡司の区別を手を動かして練習してみてください。
同じプリントの説明 2〜5ページ(聖徳太子・遣隋使と飛鳥文化・大化の改新・白村江の戦いと壬申の乱)は、中1社会「飛鳥時代」で解説しています。
無料ダウンロード(登録不要)
このプリントは「古代国家の成立」の単元全体(全18ページ)です。この記事の内容は説明 6〜11ページ/確認問題 14・15ページ。覚えることの一覧 16ページ/答えと解説 17・18ページ

コメント