【中1社会・歴史】飛鳥時代の要点まとめ|聖徳太子・大化の改新・壬申の乱

⏱ 30秒でわかる この単元の要点

  • 聖徳太子は推古天皇の摂政として、冠位十二階(603年)で才能のある人を役人に選び、十七条の憲法(604年)で役人の心構えを示した。
  • 607年、小野妹子らを遣隋使として隋に送った。隋と対等な立場で付き合い、進んだ制度や文化を学ぶのが目的。飛鳥地方を中心に、日本で最初の仏教文化の飛鳥文化が栄えた。
  • 645年、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒し、大化の改新を始めた。土地と人々を国が直接支配する公地公民の方針が示された。
  • 663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗し、九州北部に防人、西日本に山城を置いて守りを固めた。
  • 672年の壬申の乱に大海人皇子が勝って天武天皇になり、天皇の力を強めた。持統天皇は藤原京をつくった。

つまずき注意:十七条の憲法は国民が守る法律ではなく、役人の心構えを示したもの。大化の改新は蘇我入鹿を倒した事件だけでなく、そのあとに始まった政治の改革全体を指す。

中1社会(歴史)の「飛鳥時代」を、図と表と例題で1つずつ確かめるページです。聖徳太子の政治・遣隋使と飛鳥文化・大化の改新・白村江の戦いと壬申の乱を順に説明し、中国(隋・唐)を手本に、天皇を中心とする国がつくられていく流れが分かります。どの見出しも「答え → 図や表 → 理由 → 例題」の順に書いています。紙に書いて練習したい人は、下の無料プリントを使ってください。

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▶ 古代国家の成立 授業用プリント(全18ページ)

このプリントは「古代国家の成立」の単元全体(全18ページ)です。この記事の内容は説明 2〜5ページ/確認問題 13ページと14ページの大問4。そのほか、覚えることの一覧 16ページ/答えと解説 17・18ページ。説明 6〜11ページ(律令国家・平城京・天平文化など)は、律令国家と奈良時代の記事で解説しています。

飛鳥時代とは? 聖徳太子がめざした国と、冠位十二階・十七条の憲法

📄 プリント2ページ

答え:聖徳太子は、推古天皇の摂政として、有力な豪族の蘇我馬子と協力し、冠位十二階(603年)と十七条の憲法(604年)で、天皇を中心とする国をつくろうとしました。天皇の宮が飛鳥地方(奈良盆地の南部)に置かれたので、このころを飛鳥時代といいます。

理由:589年に隋が中国を統一し、強い国になりました。日本も、豪族がそれぞれの土地を治める国から、まとまった国にする必要がありました。

人物 役目・立場
推古天皇 日本で初めての女性の天皇
聖徳太子 推古天皇のおい。摂政になる
蘇我馬子 有力な豪族。聖徳太子と協力する

摂政は、天皇に代わって、または天皇を助けて政治を行う役職です。聖徳太子は、おばの推古天皇の摂政になりました。

年 どんなきまり だれに向けて ねらい
冠位十二階 603年 才能や功績のある人を役人に取り立てる(位を12に分け、冠の色などで区別した) 役人になる人 家がらにとらわれず、天皇のもとで働く人を選ぶ
十七条の憲法 604年 役人の心構えを示した 役人 天皇の命令に従い、仏教を大切にして、まとまって働く

十七条の憲法(一部):

  • 一に曰く、和をもって貴しとなし…(人の和を大切にしなさい)
  • 二に曰く、あつく三宝を敬え(三宝=仏・仏の教え・僧。仏教を大切にしなさい)
  • 三に曰く、詔をうけたまわりては必ずつつしめ(天皇の命令には必ず従いなさい)

今の憲法や法律とはちがい、役人の心構えを示したものです。

それまで 聖徳太子の政治
役人の選び方 豪族の家がらで役目が決まる 才能や功績で選び、天皇が位をあたえる
役人の心がまえ ― 十七条の憲法で示す

覚え方:「冠位は人を選ぶ、憲法は心構え」。聖徳太子の政治の目的は、天皇を中心とする政治のしくみをつくることで、手本は中国でした。

まちがえやすい

✕ 十七条の憲法は、国民が守る法律だった → ◯ 役人の心構えを示したもの

✕ 冠位十二階は、豪族の家がらで役目を決めるしくみ → ◯ 才能や功績のある人を役人に取り立てるしくみ

基本次の人物のうち、推古天皇のおいで、摂政として政治を進めたのはだれですか。ア 蘇我馬子 イ 聖徳太子 ウ 中大兄皇子 エ 小野妹子

推古天皇を助けて摂政になったのは、おいの聖徳太子です。蘇我馬子は、聖徳太子と協力した有力な豪族です。

答え:イ

標準十七条の憲法に「二に曰く、あつく三宝を敬え」とあります。三宝とは何と何と何ですか。また、役人に何を求めた内容ですか。

三宝は、仏・仏の教え・僧のことです。「あつく敬え」は、仏教を大切にしなさいという意味です。

答え:仏・仏の教え・僧。仏教を大切にすること。

標準次のうち、冠位十二階のしくみにあてはまるものを選びなさい。ア 豪族の家がらによって、役目を決めた イ 才能や功績のある人を役人に取り立て、冠の色などで位を区別した ウ 役人の心構えを、条文の形で示した エ 農民から税を集めた

アは「それまで」の役人の選び方、ウは604年の十七条の憲法の説明です。冠位十二階は、位を12に分けて冠の色などで区別し、才能や功績のある人を取り立てました。

答え:イ

聖徳太子は、なぜ隋に使いを送った? 遣隋使と飛鳥文化

📄 プリント3ページ

答え:607年、聖徳太子は小野妹子らを隋に送りました(遣隋使)。目的は、隋の進んだ制度や文化を学ぶことです。手紙には隋の皇帝と同じ「天子」の語を使い、隋と対等な立場で付き合おうとしました。このころ栄えたのが、日本で最初の仏教文化の飛鳥文化です。

隋高句麗百済新羅隋の都飛鳥遣隋使(607年)倭(日本)出典:地図:Natural Earth
遣隋使(607年):飛鳥から隋へ

理由:日本は、隋の進んだ制度や文化を学んで、国づくりに取り入れたかったからです。留学生や僧もいっしょに送られ、帰国後、国づくりに活躍しました(次の大化の改新へつながります)。

隋への手紙(『隋書』より):「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」

やさしく書きかえると、「太陽がのぼる所(日本)の天子が、太陽がしずむ所(隋)の天子に手紙を送ります。お元気ですか」という意味です。天子は、国をおさめるいちばん上の人のことです。日本の王にも、隋の皇帝と同じ「天子」を使ったので、隋と対等な立場で付き合おうとしたと分かります(隋の皇帝は腹を立てましたが、国交は続きました)。

倭の五王(南朝の宋) 遣隋使(隋)
めざしたこと 中国の皇帝に、高い地位を認めてもらう 隋と対等な立場で付き合い、進んだ制度や文化を学ぶ

飛鳥文化は、飛鳥地方を中心に栄えた、日本で最初の仏教文化です。渡来人の子孫が活躍し、朝鮮半島や中国、さらにインドや西アジアの文化の影響も受けました。聖徳太子が建てたと伝えられる法隆寺は、現存する世界最古の木造建築で、世界遺産です。金堂には釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)がまつられています。

まちがえやすい

✕ 遣隋使は、隋の皇帝に王として認めてもらうために送られた → ◯ それは倭の五王のころ。遣隋使は対等な立場を示そうとした

基本607年の遣隋使は、何世紀のできごとですか。

1世紀は1〜100年、2世紀は101〜200年、…と数えるので、7世紀は601〜700年です。607年はこの中に入ります。

答え:7世紀(7世紀=601〜700年)

標準隋への手紙の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で、「日出づる処」と「日没する処」は、それぞれどこの国のことですか。

やさしい意味では、「太陽がのぼる所(日本)の天子が、太陽がしずむ所(隋)の天子に手紙を送ります」となります。

答え:日出づる処=日本、日没する処=隋

理由中国の皇帝との付き合い方は、倭の五王のころから遣隋使のころにかけて、どう変わりましたか。

表の「めざしたこと」の行をくらべます。

答え:中国の皇帝に高い地位を認めてもらおうとしていたのが、隋と対等な立場で付き合い、進んだ制度や文化を学ぼうとするようになった。

大化の改新で、国のしくみはどう変わった? 公地公民

📄 プリント4ページ

答え:645年、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒し、唐の制度にならって、天皇を中心とする国づくりの改革を始めました。これが大化の改新です。改革では、土地と人々を国が直接支配する公地公民の方針が示されました。

始まるまでの流れ:

  1. 聖徳太子の死後、蘇我氏(蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)の親子)が、天皇をしのぐほどの大きな力をもった。豪族の力が強いままでは、天皇を中心とする国になりません。
  2. 中国では618年に唐がおこり、律令で国を治める強い国になった。隋・唐で学んで帰った留学生や僧が、唐のしくみを日本に伝えた。手本になる国のしくみが分かりました。
  3. 645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我氏を倒した。
  4. 唐の制度にならい、天皇を中心とする国づくりの改革を始めた。これが大化の改新。

「大化」は、日本で初めての年号とされています。中臣鎌足は、のちに「藤原」の姓を天皇からあたえられ、藤原氏の祖先となりました。

公地公民は、それまで皇族や豪族が支配していた土地と人々を、国が直接支配することです。

それまで 公地公民
土地 皇族や豪族のもの 国のもの
人々 豪族が治める 国が直接治める
治める中心 豪族たち 天皇を中心とする国

方針と、しくみのちがい:公地公民は、大化の改新で示された方針です。それを全国で動かすしくみ(戸籍・口分田・国司など)が整うのは、701年の大宝律令のときです。改革は少しずつ進みました。覚え方:「蘇我を倒して、土地も人も国のもの」。

まちがえやすい

✕ 大化の改新は、蘇我入鹿を倒した事件のこと → ◯ それをきっかけに始まった、政治の改革全体

✕ 大化の改新で、公地公民のしくみがすぐに全国で整った → ◯ 土地と人々を国が直接治めるという方針が示された

基本公地公民によって、土地と人々を治める中心は、豪族たちから何に変わりますか。

表の「治める中心」の行を見ます。

答え:天皇を中心とする国

標準十七条の憲法(604年)から大化の改新(645年)までは、何年たっていますか。また、大化の改新は何世紀のできごとですか。

年数:645−604=41(年)

世紀:7世紀は601〜700年。645年はこの中に入ります。

答え:41年。7世紀(7世紀=601〜700年)

理由中大兄皇子たちが大化の改新を始めたとき、唐の制度を手本にできたのは、なぜですか。

「始まるまでの流れ」の2つ目に理由があります。

答え:隋・唐で学んで帰った留学生や僧が、唐のしくみを日本に伝えていたから。

白村江の戦いと壬申の乱:東アジアの緊張の中で、国づくりはどう進んだ?

📄 プリント5ページ

答え:663年、日本は百済を助けようと大軍を送りましたが、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗し、守りを固めました。672年、あとつぎをめぐる壬申の乱に大海人皇子が勝って天武天皇になり、天皇の力を強めました。

唐高句麗百済白村江唐と新羅が結ぶ新羅大宰府防人をおいて守りを固める日本の大軍出典:地図:Natural Earth
白村江の戦い(663年)のころの東アジア

白村江の戦いの流れ:

  1. 唐と新羅が結んで、百済をほろぼした。
  2. 日本(倭)は百済を助けようと、大軍を送った。
  3. 663年、白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)で、唐と新羅の連合軍に大敗した。
  4. 唐や新羅が攻めてくることに備え、九州北部に防人(さきもり)、西日本に山城を置いて、守りを固めた。

中大兄皇子は、のちに即位して天智天皇になりました。

壬申の乱と天武天皇:672年、天智天皇の死後、あとつぎをめぐって壬申の乱(じんしんのらん)が起こりました。天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が勝ち、即位して天武天皇になりました。天武天皇の政治は、天皇の力を強め、律令や歴史書づくりを進めることでした。「天皇」という称号や「日本」という国の名は、このころから使われるようになったと考えられています。天武天皇の死後、妻の持統天皇が、日本で初めての本格的な都、藤原京をつくりました。

東アジアの動き 日本の動き
589年 隋が中国を統一 聖徳太子の政治・遣隋使
618年 唐がおこる 645年 大化の改新
唐と新羅が百済をほろぼす 663年 白村江の戦い。守りを固める
唐や新羅が攻めてくるおそれが続く 672年 壬申の乱。天武天皇が天皇の力を強める
唐は律令で国を治める大帝国 701年 大宝律令

理由:唐や新羅が攻めてくるおそれが続く中で、守りを固めることと、天皇の力を強めることが進みました。外国への備えと天皇の力の強まりの中で、701年の大宝律令へ向けて、律令づくりが進んだのです。

まちがえやすい

✕ 白村江の戦いで、日本は唐と新羅に勝った → ◯ 大敗して、守りを固めた

✕ 壬申の乱に勝ったのは天智天皇 → ◯ 天智天皇の弟の大海人皇子が勝ち、天武天皇になった

標準次のア〜エを、古い順に並べなさい。ア 十七条の憲法 イ 壬申の乱 ウ 遣隋使 エ 白村江の戦い

年を書き出します。ア 604年、イ 672年、ウ 607年、エ 663年。

小さい順に並べると、604年 → 607年 → 663年 → 672年です。4つとも7世紀(601〜700年)のできごとです。

答え:ア → ウ → エ → イ

理由白村江の戦いのあと、日本が九州北部に防人を置き、西日本に山城を築いたのは、なぜですか。

白村江の戦いの結果と、勝った国々の動きを考えます。

答え:白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗したので、唐や新羅が攻めてくることに備えるため。

基本天武天皇が進めた政治として、正しいものを選びなさい。ア 天皇の力を強め、律令や歴史書づくりを進めた イ 小野妹子を隋に送った ウ 蘇我氏を倒した エ 白村江で唐と戦った

イは聖徳太子、ウは中大兄皇子と中臣鎌足、エは天智天皇(中大兄皇子)のころのことです。

答え:ア

✅ 一問一答で総チェック(20問)

問題を読んで、答えを頭の中で言ってからタップしましょう。答えが出ます。

  1. 天皇に代わって、または天皇を助けて政治を行う役職を何といいますか。

    答え:摂政

  2. 聖徳太子が摂政として助けた、日本で初めての女性の天皇はだれですか。

    答え:推古天皇

  3. 聖徳太子と協力して政治を進めた、有力な豪族はだれですか。

    答え:蘇我馬子

  4. 603年に、才能や功績のある人を役人に取り立てるために定められたしくみは何ですか。

    答え:冠位十二階

  5. 604年に定められた、役人の心構えを示したきまりは何ですか。

    答え:十七条の憲法

  6. 天皇の宮が飛鳥地方に置かれたころを、何時代といいますか。

    答え:飛鳥時代

  7. 607年、聖徳太子が小野妹子らを送った、隋への使いを何といいますか。

    答え:遣隋使

  8. 隋への手紙に隋の皇帝と同じ「天子」の語を使ったのは、どのような立場で付き合おうとしたからですか。

    答え:対等な立場

  9. 飛鳥地方を中心に栄えた、日本で最初の仏教文化を何といいますか。

    答え:飛鳥文化

  10. 聖徳太子が建てたと伝えられる、現存する世界最古の木造建築の寺は何ですか。

    答え:法隆寺

  11. 645年に蘇我氏を倒した、皇族の人物はだれですか。

    答え:中大兄皇子

  12. 中大兄皇子とともに蘇我氏を倒した人物はだれですか。

    答え:中臣鎌足

  13. 蘇我氏を倒したあとに始まった、天皇を中心とする国づくりの改革を何といいますか。

    答え:大化の改新

  14. それまで皇族や豪族が支配していた土地と人々を、国が直接支配することを何といいますか。

    答え:公地公民

  15. 663年、日本が唐と新羅の連合軍に大敗した戦いは何ですか。

    答え:白村江の戦い

  16. 白村江の戦いのあと、九州北部の守りについた兵士を何といいますか。

    答え:防人

  17. 白村江の戦いのあと、守りを固めるために西日本に築かれた物は何ですか。

    答え:山城

  18. 672年に、天智天皇の死後のあとつぎをめぐって起こった争いは何ですか。

    答え:壬申の乱

  19. 壬申の乱に勝った大海人皇子は、即位して何という天皇になりましたか。

    答え:天武天皇

  20. 天武天皇の死後、妻が日本で初めての本格的な都をつくりました。この天皇はだれですか。

    答え:持統天皇

まとめ

6世紀の終わりから、天皇を中心とする国づくりが始まりました。聖徳太子は推古天皇の摂政として、冠位十二階(603年)で才能のある人を役人に選び、十七条の憲法(604年)で役人の心構えを示しました。607年には小野妹子らを遣隋使として送り、隋と対等な立場で付き合いながら、進んだ制度や文化を学びました。645年には、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒して大化の改新を始め、土地と人々を国が直接治める公地公民の方針を示しました。663年の白村江の戦いで大敗すると、防人と山城で守りを固め、672年の壬申の乱に勝った天武天皇が天皇の力を強めました。年号と人物は、順に並べて覚えてみてください。

同じプリントの説明 6〜11ページ(律令国家・平城京・租・調・庸・墾田永年私財法・天平文化)は、中1社会「律令国家と奈良時代」で解説しています。

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このプリントは「古代国家の成立」の単元全体(全18ページ)です。この記事の内容は説明 2〜5ページ/確認問題 13ページと14ページの大問4。覚えることの一覧 16ページ/答えと解説 17・18ページ

保護者の方へ:この単元は、聖徳太子から壬申の乱まで、人名と年号が続きます。4つのできごとが「家がらで役人を選ぶ国」から「天皇を中心に、土地と人々を国が治める国」へ向かう1本の流れだと分かると覚えやすくなります。「なぜ隋や唐を手本にしたのか」「白村江の戦いで負けたあと、なぜ守りを固めたのか」と、一緒に理由を考えてみてください。
社会
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