【中2社会・歴史】江戸幕府の成立と鎖国の要点まとめ|対馬藩と薩摩藩の窓口の違い

⏱ 30秒でわかる この単元の要点

  • 1600年の関ヶ原の戦いで石田三成らを破った徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。将軍と大名(藩)が全国を支配したしくみが幕藩体制で、大名は親藩・譜代・外様に分けられた
  • 1615年の武家諸法度は大名の城や結婚を制限し、1635年に徳川家光が制度にした参勤交代は大名に多くの費用を使わせた。朝廷は禁中並公家中諸法度と京都所司代でおさえた
  • 家康は初め朱印船貿易をすすめたが、信者の団結や侵略をおそれて1612・1613年にキリスト教を禁止した。1637年の島原・天草一揆のあと、1639年にポルトガル船の来航を禁止し、1641年にオランダ商館を出島へ移して鎖国の体制が固まった
  • 鎖国の中でも、長崎(オランダ・中国)、対馬藩(朝鮮)、薩摩藩(琉球王国)、松前藩(アイヌの人々)の4つの窓口で行き来が続いた。薩摩藩は1609年に琉球王国を征服し、国として残して中国との朝貢と貿易を続けさせた
  • 人々は武士・百姓・町人などの身分に分けられ、身分は親から子へ受けつがれた。村では村役人が年貢を集め、五人組が連帯して責任を負った。大名・外国・人々をおさえるしくみで、江戸時代は約260年続いた

つまずき注意:譜代は関ヶ原の戦いより前からの家臣、外様は関ヶ原のころから従った大名。朝鮮との窓口は対馬藩で、琉球王国は薩摩藩。薩摩藩は琉球王国をほろぼさず、国として残して中国との朝貢と貿易を続けさせた。参勤交代を制度にしたのは家光で、家康ではない。

中2社会(歴史)の「江戸幕府の成立と鎖国」を、図と例題で1つずつ確かめるページです。1600年の関ヶ原の戦いから、徳川家康が江戸幕府を開き、大名・外国・人々をおさえるしくみをつくって、江戸時代が約260年続くまでを、年号とともに学びます。鎖国の中でも続いた4つの窓口のうち、対馬藩と薩摩藩のちがいも確かめます。どの見出しも「答え → 図 → 理由 → 解き方」の順に書いています。紙に書いて練習したい人は、下の無料プリントを使ってください。

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説明 1〜12ページ/確認問題 13〜15ページ/覚えることの一覧 16ページ/答えと解説 17・18ページ。この記事の見出しごとに、対応するページを書いています。

関ヶ原の戦いから鎖国まで:江戸時代の流れ

📄 プリント1ページ

答え:江戸時代は、1603年に徳川家康が江戸幕府を開いてから1867年までの約260年です。幕府は、大名(藩)・外国との関係・人々の身分と暮らしをおさえるしくみをつくりました。

年 できごと
1600年 関ヶ原の戦い
1603年 江戸幕府が開かれる
1615年 大阪の陣・武家諸法度
1635年 参勤交代・海外渡航の禁止
1637年 島原・天草一揆
1639年 ポルトガル船の来航禁止
1641年 オランダ商館を出島へ

理由:④で学んだように、豊臣秀吉が全国を統一し、その死後に徳川家康が関ヶ原の戦いに勝って江戸幕府を開きました。この記事の見出しは、①江戸幕府のしくみ ②鎖国への道 ③長崎と朝鮮 ④琉球とアイヌ ⑤身分と暮らし の順に、幕府が何をおさえたのかを見ていきます。江戸時代の終わりは⑧で学びます。

世紀の数え方:1世紀は1〜100年、2世紀は101〜200年…と数えるので、16世紀は1501〜1600年、17世紀は1601〜1700年です。ちょうど1600年は、16世紀の最後の年です。

まちがえやすい

✕ 江戸幕府は、関ヶ原の戦いと同じ1600年に開かれた → ◯ 戦いは1600年、幕府を開いたのは1603年

基本関ヶ原の戦い(1600年)と、江戸幕府が開かれた年(1603年)は、それぞれ何世紀ですか。

16世紀は1501〜1600年、17世紀は1601〜1700年です。

答え:関ヶ原の戦い=16世紀、江戸幕府が開かれた年=17世紀

標準関ヶ原の戦いは1600年、大阪の陣は1615年、島原・天草一揆は1637年です。関ヶ原の戦いから島原・天草一揆まで、また大阪の陣から島原・天草一揆まで、それぞれ何年ありますか。

後の年から前の年をひきます。

関ヶ原の戦いから:1637−1600=37(年)

大阪の陣から:1637−1615=22(年)

答え:関ヶ原の戦いから37年、大阪の陣から22年

江戸幕府はどのように全国を支配した? 幕藩体制と親藩・譜代・外様

📄 プリント2ページ

答え:1600年の関ヶ原の戦いで家康が石田三成らを破り、1603年に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開きました。将軍(幕府)と大名(藩)が全国の土地と人々を支配したしくみを幕藩体制といい、幕府は大名を親藩・譜代・外様の3つに分けて置きました。

  • 1598年:④で学んだ豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康が力を強める
  • 1600年:関ヶ原の戦いで、家康が石田三成らを破る
  • 1603年:家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く
  • 1605年:家康が将軍の職を子の秀忠にゆずり、徳川家が将軍を受けつぐことを示す
  • 1615年:大阪の陣(冬の陣・夏の陣)で、豊臣氏をほろぼす

理由:幕府は、全国の重要な所に直接の領地(幕領)をもち、重要な都市と主な鉱山を直接支配して、金貨・銀貨をつくりました。将軍の直接の家臣は旗本と御家人で、どちらも1万石未満の武士です(石=米の量)。将軍から1万石以上の領地をあたえられた武士が大名で、大名の領地とそれを支配するしくみが藩です。

区分 徳川家との関係 置かれた所
親藩 徳川家の一族の大名(なかでも尾張・紀伊・水戸は御三家) 江戸の近くや重要な所
譜代大名 関ヶ原の戦いより前から徳川家の家臣だった大名 江戸の近くや重要な所。老中などの役職につく
外様大名 関ヶ原の戦いのころから徳川家に従った大名 東北・中国・四国・九州など、江戸から遠い所に多い
親藩譜代外様江戸水戸仙台(伊達氏)尾張(名古屋)紀伊(和歌山)土佐(山内氏)薩摩(島津氏)京都彦根(井伊氏)加賀(前田氏)長州(毛利氏)出典:地図:Natural Earth
親藩・譜代・外様の置かれた所(江戸からの近い・遠いで読む)

覚え方:「一族は親藩、古い家来は譜代、新しく従った外様」。

まちがえやすい

✕ 外様大名は、徳川家の一族だ → ◯ 一族は親藩。外様は、関ヶ原のころから従った大名

✕ 外様大名は、関ヶ原の戦いより前から徳川家の家臣だった → ◯ 前からの家臣は譜代

基本尾張藩・長州藩・土佐藩のうち、親藩はどれですか。また、残りの2つは、親藩・譜代・外様のどれですか。

尾張・紀伊・水戸は、徳川家の一族の御三家で、親藩です。長州藩と土佐藩は、外様大名の藩です。

答え:親藩=尾張藩、残りの2つ(長州藩・土佐藩)=外様

標準家康は1603年に将軍になり、1605年に将軍の職を子の秀忠にゆずりました。将軍になって何年後ですか。また、早くゆずったのは何を示すためですか。

年の差:1605−1603=2(年)

将軍の職を子にゆずることで、将軍の職を徳川家が受けつぐことを示しました。

答え:2年後。徳川家が将軍を受けつぐことを示すため

武家諸法度と参勤交代:幕府は大名や朝廷をどうおさえた?

📄 プリント3ページ

答え:幕府は、武家諸法度(1615年)で大名の城や結婚を制限し、参勤交代(1635年)で大名に多くの費用を使わせました。朝廷は禁中並公家中諸法度と京都所司代でおさえました。これで、大名は力をたくわえにくく、幕府に反抗しにくくなりました。

武家諸法度:1615年に幕府が定めた、大名が守る決まりです。城の修理には幕府への届け出が要り、新しく城を築くことや、幕府の許可のない大名どうしの結婚が禁じられました。違反した大名は、領地を取り上げられたり(改易)、別の土地に移されたりしました。

理由:城は戦いのとりでになります。大名が城を固めたり、結婚で結びついたりすると、幕府に反抗する力になるので、それを防ぐ決まりでした。

参勤交代:1635年、3代将軍徳川家光が武家諸法度を改めて制度にしました。大名が原則として1年おきに領地と江戸を行き来する決まりです。

  • 大名が、大名行列を組んで領地から江戸へ向かい、江戸の屋敷で将軍に仕える
  • 原則として1年たつと領地にもどる。妻や子は、江戸の屋敷に住まわされ続ける
  • 往復や江戸での生活に多くの費用がかかり、藩の財政の負担になる

参勤交代は、将軍と大名の主従関係を確かめる意味もあり、江戸の文化が地方に広まるもとにもなりました(⑥)。

朝廷と寺社、幕府のしくみ:1615年、幕府は禁中並公家中諸法度で天皇や公家の行動を制限し、京都所司代に朝廷を監視させました。天皇は政治の実権をもたず、学問や儀式が中心になりました。

役職 役目
老中 政治の中心。譜代大名から選ばれた
寺社奉行 寺や神社を監督
京都所司代 朝廷と西日本の大名を監視
大目付 大名を監視
町奉行 江戸の町の政治
勘定奉行 幕府の財政

覚え方:「法度で城と結婚、参勤交代でお金を使わせる」。

まちがえやすい

✕ 参勤交代では、大名の妻や子は領地に残り、大名だけが江戸に行った → ◯ 妻や子は、江戸の屋敷に住まわされた

✕ 参勤交代は、初代将軍の家康が定めた → ◯ 1635年に3代将軍の家光が、武家諸法度を改めて制度にした

標準次の①〜③の仕事は、老中・寺社奉行・京都所司代・町奉行のどれですか。 ① 寺や神社を監督する ② 朝廷と西日本の大名を監視する ③ 江戸の町の政治を行う

上の表の「役目」の欄と見くらべます。老中は政治の中心なので、①〜③には当てはまりません。

答え:① 寺社奉行 ② 京都所司代 ③ 町奉行

標準武家諸法度が定められたのは1615年、参勤交代が制度になったのは1635年です。参勤交代は、武家諸法度の何年後ですか。また、参勤交代が大名の力をたくわえにくくしたのは、なぜですか。「費用」の語を使って書きなさい。

年の差:1635−1615=20(年)

往復や江戸での生活にお金がかかるので、大名は力をたくわえにくくなります。

答え:20年後。往復や江戸での生活に多くの費用がかかり、藩の財政の負担になるから。

江戸幕府は、初め外国とどう付き合った? 朱印船貿易とキリスト教の禁止

📄 プリント4ページ

答え:家康は初め、貿易をすすめました。大名や豪商に朱印状をあたえて海外へ出かけさせる朱印船貿易がさかんになり、東南アジアに日本町ができました。一方で、キリスト教は、信者の団結や侵略をおそれて、1612年・1613年に禁止しました。

朱印船貿易:家康が、大名や豪商に、海外へ渡って貿易することを許す朱印状をあたえ、朱印状をもった船(朱印船)が東南アジアの各地に出かけた貿易です。日本人が移り住んだ所には日本町ができました。輸入は中国産の生糸・絹織物・砂糖・鹿の皮など、輸出はおもに銀でした。

明朝鮮日本台湾日本町朱印船のおもな航路長崎マニラ(ルソン)ホイアン(ベトナム)プノンペン(カンボジア)アユタヤ(シャム)出典:地図:Natural Earth
朱印船のおもな航路と日本町

日本に来たヨーロッパの国々:

国 宗教 日本に来た時期 その後
ポルトガル カトリック 1543年から(④) 5ページで学ぶ
スペイン カトリック 16世紀の終わりから 5ページで学ぶ
オランダ プロテスタント 1609年 平戸(長崎県)に商館を置く 6ページで学ぶ
イギリス プロテスタント 1613年 平戸に商館を置く 1623年に日本を去る

理由(キリスト教の禁止):家康は初め、貿易の利益のため、キリスト教の布教を黙認していました。しかし、信者の団結や、スペイン・ポルトガルによる侵略をおそれるようになり、1612年に幕府の領地でキリスト教を禁止し、1613年に全国に広げました(禁教令)。宣教師を国外に追放し、信者に信仰を捨てさせました。

覚え方:「朱印状で東南アジアへ、日本町ができる」。

まちがえやすい

✕ 家康は、幕府を開くとすぐキリスト教を禁止した → ◯ 初めは黙認。禁止は1612・1613年

標準ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスを、カトリックの国とプロテスタントの国に分けなさい。

上の表の「宗教」の欄を見ます。

答え:カトリック=ポルトガル・スペイン、プロテスタント=オランダ・イギリス

標準イギリスは1613年に平戸に商館を置き、1623年に日本を去りました。商館を置いてから何年で去りましたか。また、朱印船貿易で、日本からおもに輸出された物は何ですか。

年の差:1623−1613=10(年)

輸入は生糸・絹織物・砂糖・鹿の皮など、輸出はおもに銀でした。

答え:10年。おもに輸出された物は銀

幕府はなぜ「鎖国」をした? 島原・天草一揆と絵踏

📄 プリント5ページ

答え:鎖国は、幕府がキリスト教を禁止し、外国との行き来と貿易を自分の手でおさえるために、日本人の海外への渡航を禁じ、貿易の相手と場所を限った体制です。ヨーロッパの国では、オランダだけが長崎の出島で貿易を許されました。

禁教の後、幕府は外国との付き合いを少しずつ限りました。

年 できごと
1613年 全国でキリスト教を禁止する
1616年 ヨーロッパの船の来航を平戸と長崎に限る
1624年 スペイン船の来航を禁止する
1635年 日本人の海外への渡航と帰国を禁止する
1637年 島原・天草一揆が起こる
1639年 ポルトガル船の来航を禁止する
1641年 平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す

島原・天草一揆:1637年、島原(長崎県)と天草(熊本県)で、キリスト教の信者を中心とする人々が、重い年貢の取り立てと、信者へのきびしい取りしまりに反対して起こした一揆です。もとはキリシタン大名の領地で、人々は天草四郎(益田時貞)という少年をかしらに原城にたてこもり、幕府が1638年にしずめました。

幕府は、信者を見つけ出すため、キリストやマリアの像(踏絵)をふませる絵踏を長崎などで行い、人々を仏教の寺に属させて信者でないことを証明させました(宗門改)。

理由(鎖国のねらい):ねらいは2つあります。① キリスト教の禁止を徹底する。② 幕府が貿易の利益と海外の情報をひとりじめし、西日本の大名が貿易で力をつけるのを防ぐ。なお「鎖国」は後の時代にできた言葉です。

覚え方:「禁教 → 一揆 → ポルトガル船の来航禁止 → 出島」。

まちがえやすい

✕ 鎖国で、日本は外国との行き来を全部やめた → ◯ 長崎・対馬藩・薩摩藩・松前藩の4つの窓口で、限られた国や民族との行き来は続いた(7ページ)

標準次のア〜エを、年代の古い順に並べなさい。 ア 島原・天草一揆が起こった イ スペイン船の来航が禁止された ウ ヨーロッパの船の来航が平戸と長崎に限られた エ 大阪の陣で豊臣氏がほろんだ

年で並べます。エ=1615年、ウ=1616年、イ=1624年、ア=1637年です。

答え:エ → ウ → イ → ア

標準ポルトガル船の来航が禁止されたのは1639年、オランダ商館が出島に移されたのは1641年です。何年あとですか。また、ヨーロッパの船の来航が平戸と長崎に限られた1616年から出島に移るまでは何年ですか。

1641−1639=2(年)

1641−1616=25(年)

答え:2年あと。1616年からは25年

鎖国の中の長崎の貿易:出島とオランダ、唐人屋敷と中国

📄 プリント6ページ

答え:長崎は幕府が直接支配し、長崎奉行が治めました。ヨーロッパの国ではオランダだけが、出島で貿易を許されました。中国の商人は長崎に来て貿易をし、1689年からは唐人屋敷に住まわされました。

出島:長崎の港につくられた扇形の埋め立て地(人工の島)です。初めはポルトガル人を住まわせるためにつくられ、1641年から平戸のオランダ商館が移されました。オランダ人は出島から自由に出ることはできず、日本人の出入りも限られました。

オランダ風説書:オランダ商館長が、海外のできごとをまとめて幕府に出した報告書です。幕府はこれで海外のようすを知りました。

中国との貿易:1644年、中国では明がほろび、清が中国を支配しました。中国の商人の船は長崎に来て貿易を行い、1689年からは、中国の商人を唐人屋敷に住まわせました。

オランダ 中国
住んだ所 出島 唐人屋敷(1689年から)
来た人 商館の人々(商館長は江戸へ) 商人(船で長崎へ)

長崎の貿易で、輸入は生糸・絹織物・砂糖・薬・書物など、輸出はおもに銀・銅でした。

理由:オランダが許されたのは、④で学んだプロテスタントの国で、布教をせず貿易だけを行ったからです。幕府は、長崎の貿易と海外の情報をひとりじめしました。

覚え方:「オランダは出島、中国は唐人屋敷」。

まちがえやすい

✕ 鎖国の中で、オランダ人は日本の各地を自由に行き来して商売をした → ◯ 出島に住まわされ、自由に出られなかった(商館長は将軍へのあいさつで江戸へ行った)

理由ヨーロッパの国のうち、オランダだけが長崎で貿易を許されたのは、なぜですか。

「布教をしない」と「貿易だけ」の2つを入れて書きます。

答え:プロテスタントの国で、布教をせず、貿易だけを行ったから。

標準中国で明がほろびたのは1644年、唐人屋敷に中国の商人を住まわせはじめたのは1689年です。何年あとですか。また、1689年は何世紀ですか。

年の差:1689−1644=45(年)

17世紀は1601〜1700年なので、1689年は17世紀です。

答え:45年あと。17世紀

鎖国の中の4つの窓口:朝鮮は対馬藩、琉球は薩摩藩

📄 プリント7ページ

答え:鎖国の中でも、幕府が認めた4つの窓口で、外国や異民族との行き来が続きました。長崎(幕府が直接)はオランダ・中国、対馬藩は朝鮮、薩摩藩は琉球王国、松前藩はアイヌの人々が相手です。

窓口 相手
長崎(幕府が直接) オランダ・中国
対馬藩 朝鮮
薩摩藩 琉球王国(8ページ)
松前藩 アイヌの人々(9ページ)
中国(清)朝鮮琉球王国蝦夷地江戸長崎(オランダ・中国)対馬藩(朝鮮)薩摩藩(琉球王国)松前藩(アイヌの人々)釜山(倭館)首里アイヌの人々中国の船オランダ船出典:地図:Natural Earth
窓口からのびる線をたどって、相手を確かめる

窓口と相手の組み合わせは、図で、窓口からのびる線をたどって確かめます。2ページの地図の長州・土佐は外様大名の藩で、窓口ではありません。

朝鮮との国交の回復:秀吉の朝鮮侵略(④)で、朝鮮との国交がとだえました。家康が、対馬藩(宗氏)の仲立ちで、国交を回復しました。将軍が代わるごとなどに、朝鮮から使節(朝鮮通信使)が江戸に送られ、各地で歓迎されて、日本の学者との学問や文化の交流も行われました。

対馬藩は、朝鮮の釜山(プサン)に置かれた倭館で、朝鮮と貿易しました。朝鮮から木綿や朝鮮にんじん(薬の原料)を、日本から銀や銅を送りました。

覚え方:「朝鮮は対馬、琉球は薩摩、アイヌは松前」。

まちがえやすい

✕ 朝鮮との交流の窓口は、薩摩藩だった → ◯ 窓口は対馬藩(薩摩藩は琉球王国)

基本松前藩・対馬藩・薩摩藩の相手を、それぞれ答えなさい。

覚え方「朝鮮は対馬、琉球は薩摩、アイヌは松前」にそって答えます。

答え:松前藩=アイヌの人々、対馬藩=朝鮮、薩摩藩=琉球王国

標準4つの窓口のうち、藩ではなく、幕府が直接おさえていたのはどこですか。また、倭館での貿易で、日本から朝鮮へ送られた物を2つ答えなさい。

窓口の表で、「幕府が直接」と書いてあるのは長崎です。倭館では、朝鮮から木綿や朝鮮にんじんが、日本から銀や銅が送られました。

答え:長崎。日本から送られた物は銀と銅

琉球王国は、なぜ日本と中国の両方とつながった? 薩摩藩と対馬藩のちがい

📄 プリント8ページ

答え:1609年、薩摩藩(島津氏)が軍を送って琉球王国を征服しました。王国は国として残し、中国(明・清)に貢ぎ物を送る朝貢と貿易を続けさせて、その利益を得ました。そのため、琉球は日本と中国の両方とつながりました。

中1で学んだ琉球王国は、1429年に成立し、首里(しゅり)を都に中継貿易でさかえました。

理由:薩摩藩は、琉球王国を国として残し、中国への朝貢と貿易を続けさせて、その利益を得ました。黒砂糖なども納めさせました。

琉球使節:将軍や琉球の国王が代わるごとに、琉球から江戸に送られた使節です。中国風の服装や行列をさせられ、幕府は異国の使いが来たように見せて、権威を高めました。琉球の文化には、三線(さんしん。④の三味線のもと)や首里城(中1)があります。

対馬藩と薩摩藩のちがい:

対馬藩 薩摩藩
相手 朝鮮 琉球王国
相手との関係 家康の時代に、対馬藩(宗氏)の仲立ちで、とだえた国交が回復した 1609年、軍を送って征服した。王国は国として残し、中国との朝貢と貿易を続けさせた
貿易のようす 釜山に置かれた倭館で、朝鮮と貿易した 琉球と中国の貿易の利益を得た
江戸に来る使節 朝鮮通信使 琉球使節

覚え方:「1609年、薩摩が琉球を従える」。

まちがえやすい

✕ 薩摩藩は琉球王国をほろぼし、中国との関係をやめさせた → ◯ 王国は国として残し、中国との朝貢と貿易を続けさせて、その利益を得た

比べる対馬藩と薩摩藩の窓口について、相手と、その相手との関係のちがいを書きなさい。

表の「相手」と「相手との関係」の2つの行を見くらべます。

答え:対馬藩の相手は朝鮮で、仲立ちをして国交を回復した。薩摩藩の相手は琉球王国で、1609年に軍を送って征服し、国として残して中国との朝貢と貿易の利益を得た。

標準琉球王国が成立したのは1429年、薩摩藩が琉球王国を征服したのは1609年です。何年あとですか。また、1609年は何世紀ですか。

年の差:1609−1429=180(年)

17世紀は1601〜1700年なので、1609年は17世紀です。

答え:180年あと。17世紀

アイヌの人々と松前藩は、どんな関係だった?

📄 プリント9ページ

答え:蝦夷地の南部の松前藩が、幕府から、アイヌの人々との交易の独占を認められました。この交換は、アイヌの人々に不利な取引が多く、1669年にシャクシャインを中心に、アイヌの人々が松前藩と戦いました。

中1で学んだアイヌの人々は、狩りや漁と交易で暮らし、1457年にコシャマインの戦いを起こしました。

蝦夷地:アイヌの人々が住んでいた、今の北海道をさす、江戸時代のよび名です。

アイヌの人々がわたした物 松前藩がわたした物
さけ・こんぶ・毛皮など 米・酒・木綿・鉄製品など

シャクシャインの戦い:1669年、首長(しゅちょう)のシャクシャインを中心に、アイヌの人々が、不利な取引に反対して松前藩と戦いました。松前藩は鉄砲などを使っておさえ、その後、アイヌの人々は、いっそう不利な取引をしいられました。

アイヌの文化と、今につながる取り組み:アイヌ語や、口伝えの物語(ユーカラ)、木彫りや刺しゅうの文様が受けつがれています。北海道には、アイヌ語から来た地名が多く残っています(札幌・稚内・知床など)。2019年、アイヌの人々を先住民族と明記した法律ができ、2020年、北海道の白老町に、アイヌの文化を伝える施設(ウポポイ)が開かれました。

覚え方:「1669年、シャクシャインが立ち上がる」。

まちがえやすい

✕ アイヌの人々は、松前藩と対等な条件で取引をした → ◯ 不利な取引が多く、1669年にシャクシャインの戦いが起こった

標準アイヌの人々がコシャマインの戦いを起こした1457年から、シャクシャインの戦いが起こった1669年まで、何年ありますか。また、1669年は何世紀ですか。

年の差:1669−1457=212(年)

17世紀は1601〜1700年なので、1669年は17世紀です。

答え:212年。17世紀

理由シャクシャインの戦いのあと、アイヌの人々の取引は、どうなりましたか。

松前藩が戦いをおさえたあとのようすを書きます。

答え:いっそう不利な取引をしいられた。

江戸時代の人々は、どんな身分に分けられた?

📄 プリント10ページ

答え:江戸時代の人々は、武士・百姓・町人などの身分に分けられました。百姓は人口の大部分を占め、身分は親から子へ受けつがれ、変えることはむずかしいものでした。

④で学んだ検地と刀狩によって、武士は城下町に、百姓は村に住むように分けられました(兵農分離)。この区別が、江戸時代には身分のしくみとして固まりました。

身分 住んだ所 おもな仕事 決まりや負担
武士 城下町 政治と軍事 名字を名のり、刀を差すこと(名字・帯刀)が認められた
百姓 農村・漁村・山村 農業など 年貢を納めた
町人 城下町など 商業や物づくり 町の負担を受けもった

ほかに、公家・僧・神官などもいました。百姓や町人とは別に、えた身分やひにん身分とされた人々もいました。住む所や服装、交際などできびしく差別されましたが、農業や、皮革の仕事、役人の下働き、芸能などをして、社会を支えました。

理由:幕府や藩は、身分ごとに役割と負担を決めて、社会を治めました。身分は、「住んだ所・おもな仕事・負担」の3つを表と見くらべると見分けられます。

覚え方:「武士は政治、百姓は年貢、町人は商い」。

まちがえやすい

✕ 江戸時代は、百姓でも自由に武士になることができた → ◯ 身分は親から子へ受けつがれ、変えることはむずかしかった

標準(架空の例)Kさんは城下町に住み、物をつくって売り、町の負担を受けもっています。Lさんは漁村に住み、漁をして年貢を納めています。KさんとLさんの身分は、武士・百姓・町人のどれですか。

表の「住んだ所・おもな仕事・負担」と見くらべます。

Kさん:城下町・物づくり・町の負担 → 町人

Lさん:漁村・漁・年貢 → 百姓(百姓の住んだ所には漁村もふくまれます)

答え:Kさん=町人、Lさん=百姓

幕府や藩は、百姓をどのように治めた? 村役人と五人組

📄 プリント11ページ

答え:幕府や藩は、村ごとに年貢を納めさせ、村では村役人が年貢を集めて納めました。百姓には五人組をつくらせ、年貢を納めることや犯罪を防ぐことに、連帯して責任を負わせました。

百姓には、田畑をもち年貢を納める本百姓と、田畑をもたず、他の人の田畑を借りて耕すなどする水のみ百姓がいました。村役人は、有力な本百姓から選ばれ、村を運営して年貢を集めて納めた役で、中心の庄屋(名主)のほか、組頭・百姓代がいました。

だれが 何をする
幕府・藩 村ごとに年貢を命じる
村役人(庄屋・組頭・百姓代) 村をまとめ、年貢を集めて納める
本百姓 五人組をつくり、年貢を納める

理由:田植えや稲かり、用水路や山林の管理は、一人ではできないので、村の人々が共同で行いました。そのため、村おきて(村の決まり)がつくられました。年貢はおもに米で納め、村ごとに村役人が集めて、幕府や藩に納めました。

五人組:幕府や藩が、数戸ずつを1組にしてつくらせた組です。年貢を納めない家が出ないように、組で責任を負わせたしくみだと読めます。幕府や藩は、年貢を安定して取り立てるため、百姓の暮らしにさまざまな決まりを設けました。例えば1643年には、田畑の売り買いを禁じました。

城下町には、武士の町・町人の町・寺の町などがあり、町役人が町を運営しました。町人には、土地や家をもつ人と、家を借りる人がいました。

覚え方:「村役人が集めて、五人組で連帯」。

まちがえやすい

✕ 年貢は、百姓が1人ずつ江戸の幕府に直接納めた → ◯ 村ごとに村役人が集めて、幕府や藩に納めた

標準(架空の例)Mさんは田畑をもち、年貢を納めています。Nさんは田畑をもたず、他の人の田畑を借りて耕しています。MさんとNさんは、本百姓と水のみ百姓のどちらですか。

田畑をもって年貢を納めるのが本百姓、田畑をもたず他の人の田畑を借りて耕すのが水のみ百姓です。

答え:Mさん=本百姓、Nさん=水のみ百姓

理由五人組の中の1軒が年貢を納められなくなったとき、五人組のしくみでは、どうなりますか。

五人組は、年貢を納めることに、連帯して責任を負わせたしくみです。

答え:その家だけでなく、組の人々が連帯して責任を負う。

なぜ、江戸時代は約260年も続いた? 3つのおさえ方のまとめ

📄 プリント12ページ

答え:幕府が、大名と朝廷・外国との関係・人々の3つをおさえるしくみをつくり、幕府に反抗できる力が育ちにくかったからです。

おさえるもの しくみ(くわしく学んだページ)
① 大名と朝廷 親藩・譜代・外様の置き方(2ページ)/武家諸法度で城や結婚を制限(3ページ)/参勤交代で費用を使わせる(3ページ)/京都所司代で朝廷を監視(3ページ)
② 外国との関係 キリスト教の禁止(4ページ)/鎖国で貿易の相手と場所を限り、利益と情報をひとりじめ(5・6ページ)/4つの窓口も幕府や藩がおさえる(7〜9ページ)
③ 人々 身分を分け、親から子へ(10ページ)/村役人と五人組で年貢を確実に(11ページ)/絵踏と宗門改(5ページ)

理由:こうして、大名・外国・人々のどれからも、幕府に反抗できる力が育ちにくくなりました。江戸時代が約260年続いたのは、この3つを同時におさえたからです。

年表で確かめる:

年 できごと 年 できごと
1600年 関ヶ原の戦い 1637年 島原・天草一揆
1603年 家康が江戸幕府を開く 1639年 ポルトガル船の来航禁止
1609年 薩摩藩が琉球王国を征服 1641年 オランダ商館を出島へ
1613年 全国でキリスト教を禁止 1643年 田畑の売り買いを禁止
1615年 大阪の陣・武家諸法度 1669年 シャクシャインの戦い
1635年 参勤交代・海外渡航の禁止

まちがえやすい

✕ 江戸幕府は、外国との関係だけをおさえて、約260年続いた → ◯ 大名と朝廷・外国との関係・人々の3つをおさえた

標準次のア〜エは、「① 大名と朝廷」「② 外国との関係」「③ 人々」のどのおさえ方ですか。 ア 参勤交代 イ キリスト教の禁止 ウ 五人組 エ 京都所司代

上の表の「しくみ」の欄の言葉と見くらべます。

答え:ア=①、イ=②、ウ=③、エ=①

標準江戸時代は、1603年から1867年までです。何年続きましたか。「約260年」とくらべて答えなさい。

年の差:1867−1603=264(年)

264年は、約260年にあたります。

答え:264年(約260年)

✅ 一問一答で総チェック(20問)

問題を読んで、答えを頭の中で言ってからタップしましょう。答えが出ます。

  1. 1600年、徳川家康が石田三成らを破った、天下分け目の戦いを何といいますか。

    答え:関ヶ原の戦い

  2. 1603年、徳川家康が朝廷から任じられ、江戸に幕府を開いた地位は何ですか。

    答え:征夷大将軍

  3. 将軍と大名が全国の土地と人々を支配したしくみを何といいますか。

    答え:幕藩体制

  4. 徳川家の一族の大名を何といいますか。

    答え:親藩

  5. 関ヶ原の戦いのころから徳川家に従った大名を何といいますか。

    答え:外様大名

  6. 1615年に幕府が定めた、大名が守る決まりを何といいますか。

    答え:武家諸法度

  7. 1635年に徳川家光が制度にした、大名が原則として1年おきに領地と江戸を行き来する決まりを何といいますか。

    答え:参勤交代

  8. 年貢の納入や犯罪の防止に、連帯して責任を負わせた、数戸ずつの組を何といいますか。

    答え:五人組

  9. 家康が、大名や豪商に海外へ渡る許可を出し、東南アジアの各地に出かけた貿易を何といいますか。

    答え:朱印船貿易

  10. 朱印船貿易がさかんになり、東南アジアに日本人が移り住んでできた町を何といいますか。

    答え:日本町

  11. 村役人の中心で、名主ともよばれた役を何といいますか。

    答え:庄屋

  12. 1637年、キリスト教の信者を中心とする人々が原城にたてこもった一揆を何といいますか。

    答え:島原・天草一揆

  13. キリストやマリアの像をふませて、信者を見つけ出したことを何といいますか。

    答え:絵踏

  14. 長崎の港につくられた扇形の埋め立て地で、オランダ商館が移された所を何といいますか。

    答え:出島

  15. 1689年から、長崎に来た中国の商人を住まわせた所を何といいますか。

    答え:唐人屋敷

  16. 朝鮮の釜山に置かれ、対馬藩が貿易を行った施設を何といいますか。

    答え:倭館

  17. 家康のとき、朝鮮との国交を回復する仲立ちをした藩を何といいますか。

    答え:対馬藩

  18. 1609年に琉球王国を征服した藩を何といいますか。

    答え:薩摩藩

  19. 幕府から、アイヌの人々との交易の独占を認められた藩を何といいますか。

    答え:松前藩

  20. 1669年、不利な取引に反対して、アイヌの人々を率いて松前藩と戦った首長はだれですか。

    答え:シャクシャイン

まとめ

1600年の関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は1603年に江戸幕府を開き、親藩・譜代・外様の置き方、武家諸法度(1615年)、参勤交代(1635年)で大名をおさえました。外国との関係では、初めは朱印船貿易をすすめましたが、キリスト教を禁止し、島原・天草一揆(1637年)のあと、ポルトガル船の来航禁止(1639年)、オランダ商館の出島への移転(1641年)で鎖国の体制を固めました。鎖国の中でも、長崎(オランダ・中国)・対馬藩(朝鮮)・薩摩藩(琉球王国)・松前藩(アイヌの人々)の4つの窓口が続きました。人々は武士・百姓・町人などの身分に分けられ、村では村役人と五人組を通じて年貢が集められました。こうした大名・外国・人々をおさえるしくみが、江戸時代が約260年続いたわけです。プリントの確認問題で、年号と用語を手を動かして練習してみてください。

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▶ 江戸幕府の成立と鎖国 授業用プリント(全18ページ)

説明 1〜12ページ/確認問題 13〜15ページ/覚えることの一覧 16ページ/答えと解説 17・18ページ

保護者の方へ:この単元は、年号がたくさん登場します。「1635年の20年前は何があった?」のように、前後の年とのひき算で間をたしかめると、順番が頭に入りやすくなります。また、「大名・外国・人々の3つを、幕府はどうおさえた?」と一緒に考えてみると、鎖国もばらばらの知識ではなく、ひとつの流れとして整理できます。
社会
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