中2社会(歴史)の「欧米の近代化とアジア侵略」を、図と例題で1つずつ確かめるページです。イギリス・アメリカ・フランスの市民革命と産業革命で欧米が力をつけ、アジアに進出し、日本が開国して江戸幕府がほろびるまでを、年号とともに学びます。どの見出しも「答え → 理由 → 例題」の順に書いています。紙に書いて練習したい人は、下の無料プリントを使ってください。
⏱ 30秒でわかる この単元の要点
- イギリスでは1688年の名誉革命のあと、1689年に議会が権利章典を定めて国王に認めさせ、立憲君主制と議会政治が始まった。アメリカは1776年に独立宣言を発表し、フランスは1789年のフランス革命で人権宣言が出された。どれも、人々の自由と権利、政治への参加を求めた市民革命だった
- 18世紀後半にイギリスで産業革命が始まり、ワットが改良した蒸気機関で工場の機械や鉄道・蒸気船が動いた。資本主義が広まり、労働者は労働組合をつくり、貧富の差をなくす社会主義の考えが生まれた
- 力をつけた欧米の国々は、原料と市場を求めてアジアに進出した。イギリスは三角貿易で清にアヘンを売り、1840年のアヘン戦争に勝って、1842年の南京条約で香港をゆずらせた。インドは1857年のインド大反乱のあと、イギリスの直接支配を受けた
- 1853年にペリーが浦賀に来て、1854年の日米和親条約で日本は開国した。1858年の日米修好通商条約は、朝廷の許可を得ないまま結ばれ、日本が領事裁判権を認め、関税自主権が無い不平等条約だった。開国後は生糸の輸出で物価が上がり、大量の金が国外に流れ出た
- 尊王攘夷が高まり、井伊直弼は安政の大獄で反対する人々を処罰したが、1860年の桜田門外の変で暗殺された。薩摩藩と長州藩は外国との戦いで攘夷は無理だと知り、1866年に薩長同盟を結んで倒幕に動き、1867年の大政奉還のあと江戸幕府はほろびた
つまずき注意:名誉革命で処刑されたのではなく、処刑はピューリタン革命。領事裁判権は、外国人をその国の領事が、その国の法律で裁く権利。取りしまったのは清で、アヘンを密輸したのがイギリス。大政奉還のあとも、戊辰戦争が1869年まで続いた。
下関条約(日清戦争)は、中2社会「日清・日露戦争と近代産業の発展」で解説しています。
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説明 1〜18ページ/確認問題 19〜21ページ/覚えることの一覧 22ページ/答えと解説 23・24ページ。この記事の見出しごとに、対応するページを書いています。
- 江戸幕府はなぜほろんだ? 開国と幕府の滅亡までの流れ
- イギリスの市民革命:国王と議会の争いから権利章典へ
- アメリカはなぜイギリスから独立した? 啓蒙思想の3人
- フランス革命とナポレオン:3つの市民革命のくらべ
- 国民国家と大国:ドイツの統一・ロシア・アメリカの南北戦争
- 産業革命と資本主義:工場で働く人々の問題
- アヘン戦争と南京条約(香港):欧米のアジア進出と植民地
- 南京条約(香港)と下関条約(台湾)の違い:だれが、どこを手に入れたか
- ペリーの来航と日米和親条約:日本はなぜ開国した?
- 日米修好通商条約の不平等:領事裁判権と関税自主権
- 貿易が始まると、人々の暮らしはどうなった? 物価の上昇と金の流出
- 尊王攘夷と桜田門外の変:開国に反対する人々の動き
- 攘夷に失敗した薩摩藩・長州藩と薩長同盟
- 大政奉還と戊辰戦争:江戸幕府はどのようにほろんだ?
- なぜ江戸幕府はほろんだ? クラゲチャートと年表
- まとめ
江戸幕府はなぜほろんだ? 開国と幕府の滅亡までの流れ
📄 プリント1ページ
答え:17〜19世紀の欧米では、国王の力をおさえて人々が政治に参加する市民革命と、機械で大量に生産する産業革命が起こりました。力をつけた欧米の国々はアジアに進出し、日本も開国をせまられ、その混乱の中で江戸幕府はほろびました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1688年 | 名誉革命(イギリス) |
| 1776年 | 独立宣言(アメリカ) |
| 1789年 | フランス革命 |
| 18世紀後半 | 産業革命が始まる |
| 1840年 | アヘン戦争 |
| 1853年 | ペリーが来る |
| 1858年 | 日米修好通商条約 |
| 1867年 | 大政奉還 |
理由:前の単元で、江戸幕府が改革をくり返し、外国船が日本に近づくようになったことを学びました。そのころ欧米では、市民革命と産業革命が起こっていました。この記事の見出しは、①市民革命 → ②国民国家と大国 → ③産業革命 → ④欧米のアジア進出 → ⑤開国と幕府の滅亡、の順に進みます。
世紀の数え方:1世紀は1〜100年、2世紀は101〜200年…と数えるので、18世紀は1701〜1800年、19世紀は1801〜1900年です。
まちがえやすい
✕ 1840年のアヘン戦争は18世紀のできごと → ◯ 1840年は19世紀(1801〜1900年)
基本1789年のフランス革命と、1840年のアヘン戦争は、それぞれ何世紀のできごとですか。
18世紀は1701〜1800年、19世紀は1801〜1900年です。
答え:フランス革命=18世紀、アヘン戦争=19世紀
標準次のできごとを、古い順に並べなさい。ア ペリーが来る イ アメリカが独立宣言を発表する ウ アヘン戦争が起こる エ 名誉革命が起こる
年を書き出します。エ 1688年、イ 1776年、ウ 1840年、ア 1853年。
答え:エ → イ → ウ → ア
イギリスの市民革命:国王と議会の争いから権利章典へ
📄 プリント2ページ
答え:イギリスでは、17世紀の国王と議会の争いのあと、1688年の名誉革命で議会が国王を国外に追い、1689年に権利章典を定めました。国王は法に従い、議会を中心に政治を行う立憲君主制と議会政治が始まりました。
経済力をつけた人々(市民)が、国王などの専制(国王が自分だけの判断で政治を行うこと)に対して、自由や平等、政治への参加を求めて起こした革命を市民革命といいます。イギリスの流れは次のとおりです。
- 17世紀、国王が議会を無視して税を取ったり、反対する人をとらえたりして、議会が反発し、内戦になった
- 17世紀の中ごろ、クロムウェルが指導する議会側が勝ち、国王を処刑して、国王のいない政治(共和政)を始めた(ピューリタン革命)
- のちに国王の政治にもどったが、国王がふたたび議会を無視した
- 1688年、議会は国王を国外に追い、オランダから新しい国王をむかえた(名誉革命。血を流さずに行われた)
- 1689年、議会は権利章典を定め、新しい国王に認めさせた
権利章典:議会の承認がなければ、国王は法律を止めることも、税を取ることもできない、などを定めた決まりです。今の議会政治のもとになりました。
理由:議会が国王の力をおさえたからです。いくつかのできごとから1つを選ぶ時は、できごとごとに「だれの力が強まり、だれの力がおさえられたか」を言葉にします。権利章典では、議会の力が強まり、国王の力がおさえられました。
覚え方:「ピューリタンは処刑、名誉は無血」。
まちがえやすい
✕ 名誉革命で、国王が処刑された → ◯ 処刑はピューリタン革命。名誉革命は血を流さなかった
基本ピューリタン革命と名誉革命のうち、国王が処刑されたのはどちらですか。
議会側が勝って国王を処刑したのは17世紀の中ごろです。名誉革命は血を流さずに行われました。
答え:ピューリタン革命
標準権利章典が「議会の承認がなければ、国王は税を取ることができない」と定めたことで、力が強まったのはだれで、おさえられたのはだれですか。
税を取るかどうかを、国王ひとりでは決められなくなりました。決める力は議会に移ります。
答え:強まったのは議会、おさえられたのは国王
アメリカはなぜイギリスから独立した? 啓蒙思想の3人
📄 プリント3ページ
答え:イギリスが植民地に新しい税をかけたことに、植民地の人々が反発して独立戦争を始め、1776年に独立宣言を発表しました。「人は生まれながらに自由で平等」という啓蒙思想が、この革命を支えました。
イギリスは、17世紀から北アメリカの東部に植民地(本国に支配される地域)をつくり、18世紀には13の植民地がありました。18世紀の中ごろ、イギリスは財政を補うため新しい税をかけました。植民地の人々は、本国の議会に代表を送っていないのにおかしいと反発しました(「代表なくして課税なし」)。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1775年 | 独立戦争が始まる(ワシントンが総司令官) |
| 1776年 | 独立宣言を発表する |
| 1783年 | イギリスが独立を認める |
| 1787年 | 合衆国憲法を定める |
| 1789年 | ワシントンが初代の大統領になる(アメリカ合衆国) |
独立宣言:「すべての人は平等につくられ、生命・自由・幸福を追求する権利をもつ」「その権利をうばう政府は、人々が変えることができる」とうたった宣言です。
理由(革命を支えた考え):17〜18世紀のヨーロッパで広まった「人は生まれながらに自由で平等な権利をもつ」という考えを啓蒙思想といいます。3人の思想家と、その影響は次のとおりです。
| 人物 | 国 | 説いたこと | 影響 |
|---|---|---|---|
| ロック | イギリス | 人は生命・自由・財産の権利をもち、政府がこれをうばうなら、人々は政府を変えることができる(抵抗権) | 独立宣言 |
| モンテスキュー | フランス | 『法の精神』で、国の権力を立法・行政・司法の3つに分け、たがいにおさえ合わせる三権分立を説いた | 合衆国憲法 |
| ルソー | フランス | 『社会契約論』で、主権は人民にあると説いた(人民主権) | フランス革命 |
まちがえやすい
✕ アメリカの独立戦争は、国王を処刑するために起こった → ◯ 本国の税に反発し、独立を求めて起こした
基本ルソーが『社会契約論』で説いた、主権は人民にあるという考えを何といいますか。
主権をもつのが国王ではなく人民だ、という考えです。のちのフランス革命に影響を与えました。
答え:人民主権
標準アメリカが独立するまでのできごとを、古い順に並べなさい。ア 独立宣言を発表した イ 独立戦争が始まった ウ イギリスが独立を認めた エ 合衆国憲法を定めた
年を書き出します。イ 1775年、ア 1776年、ウ 1783年、エ 1787年。
答え:イ → ア → ウ → エ
フランス革命とナポレオン:3つの市民革命のくらべ
📄 プリント4・5ページ
答え:革命の前のフランスでは、聖職者と貴族は税を納めなくてよいなどの特権をもち、平民が重い税を負担していました。1789年、パリの民衆がバスチーユ牢獄をおそってフランス革命が始まり、国民議会が人権宣言を発表しました。革命後の混乱の中でナポレオンが勢力をのばし、1804年に皇帝になりました。
| 身分 | だれ | 税 |
|---|---|---|
| 第一身分 | 聖職者 | 納めなくてよいなどの特権をもつ |
| 第二身分 | 貴族 | |
| 第三身分 | 平民(農民・商工業者) | 人口の大部分をしめ、重い税を負担した |
そのころのフランスは、国王が強い権力をもって政治を行っていました(絶対王政)。流れは次のとおりです。
- 国の財政が苦しくなり、国王が3つの身分の代表を集めた議会(三部会)を開いた
- 平民の代表は、自分たちで国民議会をつくった
- 1789年、パリの民衆が、国王の政治の象徴だったバスチーユ牢獄をおそい、フランス革命が始まった
- 同じ1789年、国民議会が人権宣言を発表した
人権宣言:人は生まれながらに自由で平等な権利をもつ、国の主権は国民にある、自由の権利、財産をもつ権利などをうたった宣言です。ルソーらの考えの影響を受け、今の基本的人権のもとになりました。
ナポレオン:革命が自分の国に広がり、国王の政治がたおされることをおそれた周りの国々が、フランスに軍を送りました。1792年、フランスは王政を廃止して共和政を始め、その翌年に国王を処刑しました。国民は、革命を守るために兵士として戦いました。革命後の混乱の中で、軍人のナポレオンが勢力をのばし、1804年に皇帝になり、同じ年にナポレオン法典(法の前の平等・個人の自由・財産をもつ権利などを定めた民法)を定めました。ヨーロッパの大部分を支配しましたが、ロシアへの遠征に失敗し、1815年に完全に敗れました。ナポレオンの支配を通じて、自由と平等の考えがヨーロッパ各地に広まり、支配された国々では、1つの国民としてまとまろうとする意識が高まりました。
3つの市民革命のくらべ:
| 国 | 年 | できごと | 始まった政治・定めたもの |
|---|---|---|---|
| イギリス | 1688〜1689年 | 名誉革命・権利章典 | 立憲君主制と議会政治 |
| アメリカ | 1775〜1783年 | 独立戦争・独立宣言(1776年) | 独立した共和政の国・合衆国憲法(1787年) |
| フランス | 1789年〜 | フランス革命・人権宣言 | 王政をたおして共和政 |
どの革命も、国王の専制や本国の支配に反対し、人々の自由と権利、政治への参加を求めた点が共通しています。
覚え方:「特権の2つの身分、重い税の平民」。
まちがえやすい
✕ 革命前のフランスでは、すべての身分の人が同じように税を納めていた → ◯ 聖職者と貴族は特権をもち、平民が重い税を負担した
✕ ナポレオンは、フランス革命で国王の政治を守るために戦った → ◯ 革命後の混乱の中で勢力をのばし、皇帝になった
基本1789年に、パリの民衆がおそった牢獄の名前と、同じ年に国民議会が発表した宣言の名前を答えなさい。
国王の政治の象徴だった牢獄をおそったことから、フランス革命が始まりました。
答え:牢獄=バスチーユ牢獄、宣言=人権宣言
標準次のA〜Cは、イギリス・アメリカ・フランスのどの国の革命の説明ですか。A 議会が国王を国外に追い、オランダから新しい国王をむかえた B 植民地の人々が、本国からの独立を求めて戦った C パリの民衆の動きから、王政をたおして共和政になった
3つの革命のくらべの表で確かめます。Aは1688年の名誉革命、Bは1775年からの独立戦争、Cは1789年からのフランス革命です。
答え:A=イギリス、B=アメリカ、C=フランス
国民国家と大国:ドイツの統一・ロシア・アメリカの南北戦争
📄 プリント6・7ページ
答え:19世紀のヨーロッパでは、同じ言葉や歴史・文化をもつ人々が1つの国民としてまとまろうとする国民意識が高まり、国民がまとまってつくる国民国家が生まれました。ドイツは1871年にビスマルクの指導で統一され、アメリカは南北戦争(1861〜1865年)のあと工業が発展して大国になりました。
ナポレオンの支配への反発から、19世紀のヨーロッパでは、国のまとまりを考える動きが広がりました。4つの国で進んだことは次のとおりです。
| 国 | 19世紀に進んだこと | 年 |
|---|---|---|
| イギリス | 議会政治が発展し、選挙権がしだいに労働者などにも広げられた | 19世紀 |
| フランス | ナポレオンのあと国王の政治にもどったが、革命がくり返された。財産に関係なく成人の男子全員が選挙権をもつ男子普通選挙が、世界で初めて実現した | 1848年 |
| ドイツ | 多くの小さな国に分かれていたが、プロイセン王国の首相ビスマルクの指導で統一された | 1871年 ドイツ帝国 |
| イタリア | いくつかの国に分かれていたが、統一された | 1861年 イタリア王国 |
ドイツの統一:プロイセン王国の首相ビスマルクは、「鉄(兵器)と血(兵士)によって問題を解決する」と説いて軍備を強めたので、「鉄血宰相」とよばれました。戦争に勝ち、1871年にドイツ帝国をつくりました。
ロシア:皇帝が強い権力をもつ国で、シベリアを通って太平洋岸まで領土を広げました。冬でもこおらない港(不凍港)を求めて、黒海や東アジアなど南の方へ勢力を広げようとした政策を南下政策といい、イギリスなどと対立しました。
アメリカ:独立のあと西へ領土を広げ(西部開拓)、先住民の土地をうばいながら、19世紀の半ばに太平洋岸に達しました。やがて、北部と南部が対立しました。
| 北部 | 南部 | |
|---|---|---|
| 産業 | 商工業がさかん | 綿花などの大農園 |
| 奴隷制 | 反対 | アフリカから連れてこられた黒人の奴隷を働かせ、続けたい |
| 貿易 | 外国の工業製品から国内の産業を守る保護貿易を求めた | 綿花をイギリスに売るため、自由貿易を求めた |
1861年に南北戦争が始まり、1863年に北部のリンカン大統領が奴隷解放宣言を出しました。同じ年の演説で「人民の、人民による、人民のための政治」を訴えました。1865年に北部が勝ち、アメリカは1つの国のまとまりを保ち、工業が急速に発展して大国になりました。奴隷は解放されましたが、黒人への差別は長く残りました。
理由:北部の工場は、イギリスの安い工業製品が入ると売れ行きが落ちるので、保護貿易を求めました。南部は、綿花をイギリスに売りたいので、自由貿易を求めました。
覚え方:「鉄と血でドイツ統一」。
まちがえやすい
✕ ドイツは、19世紀の初めから1つの国だった → ◯ 多くの小さな国に分かれていて、1871年にドイツ帝国として統一された
✕ 南北戦争では、奴隷制を続けたい北部が勝った → ◯ 奴隷制を続けたかったのは南部。北部が勝ち、奴隷は解放された
基本「鉄(兵器)と血(兵士)によって問題を解決する」と説き、1871年にドイツ帝国をつくったプロイセン王国の首相はだれですか。
軍備を強めて戦争に勝ち、統一した人物です。「鉄血宰相」とよばれました。
答え:ビスマルク
標準アメリカの南部が、自由貿易を求めたのはなぜですか。南部の産業にふれて書きなさい。
「南部の産業」と「イギリスに売る」の2つを入れて書きます。
答え:南部は綿花などの大農園が中心で、綿花をイギリスに売りたいから。
基本1861年に始まった南北戦争は、何世紀のできごとですか。
19世紀は1801〜1900年です。1861年はこの範囲に入ります。
答え:19世紀
産業革命と資本主義:工場で働く人々の問題
📄 プリント8・9ページ
答え:産業革命は、機械の発明と工場での大量生産による、産業と社会の大きな変化で、18世紀後半にイギリスで始まりました。工場で人を雇って利益を求める資本主義が広まり、働く人々の問題から労働組合や社会主義が生まれました。
- 18世紀のイギリスは、インドから綿織物を輸入していた(軽くて丈夫で、人気があった)
- 綿織物を自分の国で安くつくろうと、糸をつむぐ機械や布を織る機械が次々に発明・改良された
- 18世紀後半、ワットが蒸気機関を改良し、石炭を燃やして生まれる力で機械を動かせるようになった
- 工場で、機械を使って品物を大量に生産するようになった
- 19世紀、蒸気機関車(鉄道)や蒸気船が走り、人や物を速く大量に運べるようになった
- イギリスは安い工業製品を世界中に輸出し、「世界の工場」とよばれた。インドにも、機械でつくった綿織物を輸出するようになった
理由(なぜイギリスで最初に始まった?):石炭と鉄が豊富にとれたこと、貿易などで富をたくわえた人々がいたこと、市民革命で人々が自由に経済活動をできるようになっていたこと、植民地から原料を手に入れ、製品を売ることができたこと、が重なりました。1851年には、ロンドンで世界で初めての万国博覧会が開かれ、各国の工業製品が並びました。産業革命は、19世紀に、フランス・ドイツ・アメリカなどにも広がりました。
資本主義:資本家(工場や機械などをもつ人)が、労働者を賃金で雇って品物をつくらせ、利益を求めて自由に生産・販売する経済のしくみです。パンの工場なら、資本家が工場と機械を用意し、労働者を雇ってパンをつくらせます。パンが売れると、その利益は資本家のものになります。
| 起こった問題 | 解決をめざす動き |
|---|---|
| 低い賃金で、1日に長い時間働かされた | 労働組合をつくり、賃金を上げることや働く時間を短くすることを求めた。選挙権を求める運動も起こした |
| 機械を使う仕事は力のいらない作業が多く、子どもや女性も、安い賃金で長い時間働かされた | 子どもが働くことを制限する法律がつくられた |
| 都市に人が集まり、せまく不衛生な住宅が多く、工場の煙などで環境も悪くなった。景気が悪くなると、仕事を失う人も出た。資本家と労働者の貧富の差が広がった | 貧富の差をなくす社会主義の考えが生まれた |
| くらべること | 資本主義 | 社会主義 |
|---|---|---|
| 工場や土地 | 資本家がもつ | 社会全体のものにする |
| めざすもの | 利益を求めて、自由に生産・販売する | 貧富の差をなくし、平等な社会をつくる |
社会主義は、ドイツのマルクスが説きました。
覚え方:「石炭と蒸気で工場が動く」。
まちがえやすい
✕ 蒸気機関は、風の力で機械を動かす装置だ → ◯ 石炭を燃やして生まれる力で機械を動かす
✕ 社会主義は、資本家が利益を求めて自由に生産することをめざす考えだ → ◯ それは資本主義。社会主義は、土地や工場を社会全体のものにして平等な社会をめざす考え
標準産業革命のころ、イギリスが「世界の工場」とよばれたのはなぜですか。
「機械」「安い」「輸出」の3つの語を入れて書きます。
答え:機械でつくった安い工業製品を、世界中に輸出したから。
標準パンの工場で、パンが売れたときの利益はだれのものになりますか。また、そこで働く人は、何を受け取って雇われていますか。資本主義のしくみで答えなさい。
資本家が工場と機械を用意し、労働者を賃金で雇ってパンをつくらせます。
答え:利益は資本家のもの。働く人(労働者)は賃金を受け取る。
アヘン戦争と南京条約(香港):欧米のアジア進出と植民地
📄 プリント10・11ページ
答え:産業革命が進んだ欧米の国々は、工業の原料を手に入れる所と製品を売る市場を求めて、軍事力を背景にアジアやアフリカに進出し、植民地にしました。イギリスは清と1840年にアヘン戦争を起こして勝ち、1842年の南京条約で香港をゆずらせました。
三角貿易:イギリスは、清から茶を多く輸入しましたが、清に売れる品物が少なく、代金として大量の銀が清に流れ出ました。そこで、イギリス・インド・清の3つの地域を結ぶ三角貿易を始めました(19世紀)。
| 動き | 品物 |
|---|---|
| イギリス → インド | 綿織物 |
| インド → 清 | アヘン(麻薬。ひそかに売った=密輸) |
| 清 → イギリス | 茶 |
矢印の図は、矢印ごとに「だれからだれへ、何が動くか」を言葉にして、同じ品物が入る所を見つけます(例:農家 → パン屋「小麦」)。銀の流れは、茶の代金の銀がイギリスから清へ、アヘンの代金の銀が清から流れ出て(清 → インド → イギリス)もどる形です。
アヘン戦争:
- 清ではアヘンを吸う人がふえて社会が乱れ、銀が国外に流れ出た
- 清がアヘンの輸入をきびしく取りしまった
- 1840年、イギリスが軍艦を送り、戦争になった(アヘン戦争)。新しい武器をもつイギリスが勝った
- 1842年、南京条約を結んだ。清は香港をイギリスにゆずり、上海など5つの港を開き、賠償金をはらった
- 翌年の取り決めで、清は領事裁判権を認め、関税を決める権利を失った(次の「日米修好通商条約」の見出しで学びます)
清の敗北のあと、欧米の国々は、アジアの多くの地域を植民地(ほかの国に支配され、政治や経済の自由をうばわれた地域)にしました。ロシアも、冬でもこおらない港を求めて南へ勢力を広げました。地図で、イギリス・フランス・オランダが支配した地域と、ロシアの動きを確かめましょう。タイは独立を保ちました。
| 地域 | 何が起こった | 年 |
|---|---|---|
| 清 | 賠償金などのために税が重くなり、洪秀全を中心に農民などが太平天国の乱を起こした。一時は南京を都にした | 1851〜1864年 |
| インド | イギリスの東インド会社が支配を広げ、安い綿織物が入ってインドの手工業がおとろえた。会社に雇われていたインド人の兵士の反乱をきっかけに、人々が各地で立ち上がった(インド大反乱)。イギリスはこれをおさえ、ムガル帝国をほろぼして、インドを直接支配した | 1857年(反乱)、1858年(ほろぶ) |
| 東南アジア | オランダがインドネシアを、フランスがインドシナ半島の東部(今のベトナムなど)を、イギリスがマレー半島・シンガポール・ビルマ(今のミャンマー)を植民地にした | 19世紀 |
アヘン戦争で清が敗れたことは日本にも伝わり、幕府は1842年に異国船打払令をやめました。欧米の国々は、日本にも開国を求めました。
覚え方:「茶の銀を、アヘンで取りもどす」。
まちがえやすい
✕ イギリスがアヘンを取りしまり、アヘン戦争が起こった → ◯ 取りしまったのは清。密輸したのがイギリス
✕ インド大反乱で、インドは独立した → ◯ イギリスはこれをおさえ、インドを直接支配した
基本1842年の南京条約で、清がイギリスにゆずった地域はどこですか。
アヘン戦争に勝ったイギリスが、清にゆずらせた地域です。
答え:香港
標準三角貿易で、イギリスからインドへ、インドから清へ、清からイギリスへ動いた品物を、それぞれ答えなさい。
矢印ごとに「だれからだれへ、何が動くか」を言葉にします。
答え:イギリス → インド=綿織物、インド → 清=アヘン、清 → イギリス=茶
基本オランダ・フランス・イギリスのうち、インドネシアを植民地にした国はどこですか。
東南アジアの植民地の表で確かめます。
答え:オランダ
南京条約(香港)と下関条約(台湾)の違い:だれが、どこを手に入れたか
📄 プリント10・11ページ(南京条約)。下関条約はこのプリントにはありません(中2社会「日清・日露戦争」の単元)
答え:どちらも清が戦争に負けて結んだ条約ですが、相手の国と、ゆずった土地がちがいます。南京条約(1842年)はアヘン戦争の後に結ばれ、清は香港をイギリスにゆずりました。下関条約(1895年)は日清戦争の後に結ばれ、清は台湾などを日本にゆずりました。
| 南京条約 | 下関条約 | |
|---|---|---|
| 年 | 1842年 | 1895年 |
| その前の戦争 | アヘン戦争(イギリスと清) | 日清戦争(日本と清) |
| 清がゆずった土地 | 香港(イギリスへ) | 遼東半島・台湾・澎湖諸島(日本へ) |
| ほかの中身 | 上海など5つの港を開く。賠償金をはらう | 朝鮮の独立を認める。多額の賠償金をはらう |
覚え方は「南京条約はイギリスが香港、下関条約は日本が台湾」です。下関条約で日本が得た遼東半島は、ロシア・ドイツ・フランスの求め(三国干渉)で清に返しました。下関条約のくわしい中身は、中2社会「日清・日露戦争と近代産業の発展」で解説しています。
まちがえやすい
✕ 南京条約で、清は台湾をゆずった → ◯ 南京条約は香港(イギリスへ)。台湾は下関条約(日本へ)
✕ 下関条約は、アヘン戦争の後の条約 → ◯ 下関条約は日清戦争の後。アヘン戦争の後は南京条約
基本南京条約と下関条約で、清が土地をゆずった相手の国を、それぞれ答えなさい。
その前の戦争で、清がどの国に負けたかを考えます。
答え:南京条約=イギリス、下関条約=日本
標準次のア〜エを、年代の古い順に並べなさい。ア 下関条約を結ぶ イ アヘン戦争が起こる ウ 日米修好通商条約を結ぶ エ 南京条約を結ぶ
アヘン戦争は1840年、南京条約は1842年、日米修好通商条約は1858年、下関条約は1895年です。
答え:イ → エ → ウ → ア
ペリーの来航と日米和親条約:日本はなぜ開国した?
📄 プリント12ページ
答え:アメリカは、船に燃料・食料・水を補給できる港を日本に求め、1853年にペリーが浦賀に来ました。翌1854年に日米和親条約が結ばれ、鎖国の体制が終わって日本は開国しました。
- アメリカは、北太平洋で捕鯨をする船や、清と貿易をする船のために、燃料・食料・水を補給できる港を日本に求めた
- 1853年、アメリカの使節ペリーが、4隻の軍艦(黒船)を率いて浦賀(神奈川県)に来て、開国を求める大統領の手紙(国書)を幕府にわたした
- 幕府は返事を翌年にのばし、朝廷に報告し、大名にも意見を求めた。それまで外交は幕府だけで決めていたので、朝廷や大名が政治に意見を言うきっかけになった
- 1854年、ペリーがふたたび来航した
- 同じ1854年、幕府は日米和親条約を結んだ
日米和親条約:下田(静岡県)と函館(北海道)の2つの港を開き、アメリカの船に燃料・食料・水などをあたえる、下田に領事を置く、という内容です。幕府は、イギリス・ロシア・オランダとも同じような条約を結びました。
覚え方:「1853(いやでござんす)ペリー来航」。
まちがえやすい
✕ 日米和親条約で、自由な貿易が始まった → ◯ 貿易は1858年の日米修好通商条約から
基本ペリーが4隻の軍艦を率いて来航した港は、何県にありますか。
来航した港は浦賀です。
答え:神奈川県
標準ペリーがわたした国書の返事を、幕府が翌年にのばし、朝廷に報告して大名にも意見を求めたことは、何のきっかけになりましたか。
それまでの外交は、だれが決めていたかを考えます。
答え:外交は幕府だけで決めていたので、朝廷や大名が政治に意見を言うきっかけになった。
日米修好通商条約の不平等:領事裁判権と関税自主権
📄 プリント13ページ
答え:1858年、大老の井伊直弼が朝廷の許可を得ないまま日米修好通商条約を結びました。この条約は、日本が領事裁判権を認め、関税自主権が無い、日本にとって不平等条約でした。
開国のあと、アメリカの総領事ハリスは、貿易を始めることを強く求めました。清がイギリス・フランスに敗れたことを伝え、日本にも危険がせまっていると説きました。幕府は朝廷の許可を得て条約を結ぼうとしましたが、朝廷は許可しませんでした。
| 日米和親条約 | 日米修好通商条約 | |
|---|---|---|
| 年 | 1854年 | 1858年 |
| 開いた港 | 下田・函館 | 函館・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の5つ |
| 中身 | アメリカの船に燃料・食料・水などをあたえる | 自由な貿易を認める。日本にとって不平等な内容があった |
| 領事裁判権(治外法権) | 関税自主権 | |
|---|---|---|
| 意味 | 日本で罪をおかした外国人を、日本の法律ではなく、その国の領事(外国で自国の人を守る役人)が、その国の法律で裁く権利 | 輸入品にかける税(関税)の割合を、自分の国で決める権利 |
| 日本は | 認めた | 無かった(相手の国と相談して決めることになった) |
領事裁判権の例:Hさんの国の商人が、日本で罪をおかしました(架空の例)。日本の役所は裁けず、Hさんの国の領事が、Hさんの国の法律で裁きます。
関税の例:外国の安い品物が日本に入ってきます。日本は、税を上げて国内の産業を守りたいのに、日本だけでは税を決められず、守れません。
このような条約を不平等条約といい、その改正は明治時代の大きな課題になります。
まちがえやすい
✕ 領事裁判権は、日本の役所が外国人を裁く権利だ → ◯ その国の領事が、その国の法律で裁く権利
基本日米和親条約で開いた港の数と、日米修好通商条約で開いた港の数を、それぞれ答えなさい。
日米和親条約は下田と函館、日米修好通商条約は函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫です。
答え:日米和親条約=2つ、日米修好通商条約=5つ
標準領事裁判権と関税自主権のうち、日米修好通商条約で日本が認めた権利と、日本に無かった権利を、それぞれ答えなさい。
「認めた」のは外国人を裁く権利、「無かった」のは税を決める権利です。
答え:認めた=領事裁判権、無かった=関税自主権
標準日本で罪をおかしたHさんの国の商人は、だれが、どの国の法律で裁きますか。領事裁判権のしくみで答えなさい。
日本の役所は裁けません。
答え:Hさんの国の領事が、Hさんの国の法律で裁く。
貿易が始まると、人々の暮らしはどうなった? 物価の上昇と金の流出
📄 プリント14ページ
答え:1859年、横浜・長崎・函館で貿易が始まりました。生糸が大量に輸出されて国内で品不足になり、物価が上がりました。金と銀の交換の割合が日本と外国でちがったので、大量の金が国外に流れ出ました。
| おもな品物など | |
|---|---|
| 輸出 | 生糸(いちばん多い)・茶など |
| 輸入 | 毛織物・綿織物・武器など |
| 港と相手 | いちばん多い港は横浜、相手の国はイギリス |
機械でつくられた安い綿織物が輸入され、国内の綿織物づくりが打撃を受けました。
物価の上昇:生糸が大量に輸出され、国内で品不足になって、値段が上がりました。米などほかの品物の値段も上がり(物価の上昇)、人々の生活が苦しくなりました。
| 金と銀を交換する割合 | |
|---|---|
| 日本 | 金1に対して、銀およそ5 |
| 外国 | 金1に対して、銀およそ15 |
金の流出:外国人が、外国の銀貨を日本に持ちこむ → 日本の金貨に交換する → 金貨を外国に持ち出す、という流れで、大量の金が国外に流れ出ました。幕府は、金の量を減らした小判をつくって流出を止めようとしましたが、物価がさらに上がりました。
覚え方:「生糸が出て、物価が上がる」。
まちがえやすい
✕ 開国後は輸入品がふえたので、日本の物価は下がった → ◯ 生糸の輸出で品不足になり、物価は上がった
基本開国後の貿易で、いちばん多く輸出された品物は何ですか。
輸出の表で確かめます。
答え:生糸
発展日本では金1に対して銀5、外国では金1に対して銀15で交換されていたとします。外国人が、外国の銀15を日本に持ちこむと、日本の金貨(金)いくつと交換できますか。その金を外国に持ち出すと、外国の銀いくつと交換できますか。
日本での交換:銀15÷5=金3
外国での交換:金3×15=銀45
銀15が銀45になり、3倍にふえます。だから、外国人は金を持ち出そうとして、金が国外に流れ出ました。
答え:日本で金3と交換、外国で銀45と交換できる(3倍)
尊王攘夷と桜田門外の変:開国に反対する人々の動き
📄 プリント15ページ
答え:朝廷の許可を得ない条約と、暮らしの苦しさから、尊王攘夷の運動が高まりました。井伊直弼は安政の大獄で反対する人々を処罰しましたが、1860年に桜田門外の変で暗殺され、幕府の権威は大きく落ちました。
尊王攘夷:天皇を尊ぶ考え(尊王)と、外国の勢力を追い払おうとする考え(攘夷)が結びついたものです。「尊王」の「王」は天皇、「攘夷」の「夷」は外国のことで、「攘」は追い払うという意味です。国学の影響もありました。
- 朝廷の許可を得ないまま結ばれた条約に、反対する声が高まった
- 1858〜1859年、井伊直弼は、幕府の政策に反対する大名や公家を処罰し、長州藩の吉田松陰ら(尊王攘夷を説いた人々)を処刑した(安政の大獄)
- 1860年、これに反発した水戸藩などの元藩士たちが、江戸城の桜田門の外で井伊直弼を暗殺した(桜田門外の変)
- 幕府の大老が殺されたことで、幕府の権威は大きく落ちた
- 幕府は、朝廷との結びつきを強めて立て直そうとし、孝明天皇の妹の和宮を14代将軍の妻にむかえた(公武合体)
公武合体は、朝廷(公)と幕府(武)が結びついて、政治を立て直そうとする考えです。
| 安政の大獄 | 桜田門外の変 | |
|---|---|---|
| 年 | 1858〜1859年 | 1860年 |
| だれが | 大老の井伊直弼(幕府) | 水戸藩などの元藩士たち |
| 何をした | 反対する大名や公家を処罰し、吉田松陰らを処刑した | 桜田門の外で、井伊直弼を暗殺した |
覚え方:「尊王で天皇を、攘夷で外国を」。
まちがえやすい
✕ 桜田門外の変で、幕府の力は強まった → ◯ 大老が殺され、幕府の権威は大きく落ちた
基本尊王攘夷の「攘夷」とは、どんな考えですか。
「夷」は外国のこと、「攘」は追い払うという意味です。
答え:外国の勢力を追い払おうとする考え
標準次のA・Bは、安政の大獄と桜田門外の変のどちらの説明ですか。A 水戸藩などの元藩士たちが、江戸城の桜田門の外で井伊直弼を暗殺した B 井伊直弼が、反対する大名や公家を処罰し、吉田松陰らを処刑した
表の「だれが」「何をした」で見分けます。井伊直弼が処罰した側と、暗殺された側のちがいです。
答え:A=桜田門外の変、B=安政の大獄
攘夷に失敗した薩摩藩・長州藩と薩長同盟
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答え:外国と戦った薩摩藩と長州藩は、欧米の軍事力の強さを知り、攘夷は無理だと考えて軍備を強めました。1866年、坂本龍馬らの仲立ちで薩長同盟を結び、幕府をたおす倒幕の中心になりました。
| 薩摩藩 | 長州藩 | |
|---|---|---|
| 外国との戦い | 1862年、藩士がイギリス人を殺傷した(生麦事件)。1863年、イギリスの艦隊が鹿児島を砲撃した(薩英戦争) | 1863年、下関海峡(関門海峡)を通る外国船を砲撃した。1864年、4か国の艦隊が下関の砲台を攻撃し、占領した |
| 実権 | 西郷隆盛・大久保利通 | 奇兵隊をつくった高杉晋作と、木戸孝允 |
理由:どちらの藩も、戦いで欧米の軍事力の強さを知り、外国を追い払うこと(攘夷)は無理だと考えました。そこで、イギリスなどから武器や技術を取り入れ、軍備を強めました。
薩長同盟:1866年、土佐藩出身の坂本龍馬らの仲立ちで、対立していた薩摩藩と長州藩が結んだ同盟です。
人々の動き:物価の上昇で生活に苦しむ人々は、世の中を立て直すこと(世直し)を求めて、各地で一揆や打ちこわしを起こしました。1867年には、「伊勢神宮などのお札が降ってきた」として、人々が「ええじゃないか」と歌いながら町を踊り歩く騒ぎが、近畿・東海地方などに広がりました。
覚え方:「攘夷に敗れて、薩長手を結ぶ」。
まちがえやすい
✕ 薩英戦争で、薩摩藩はイギリスを追い払った → ◯ 欧米の軍事力の強さを知り、攘夷は無理だと考えた
基本1862年の生麦事件のあと、1863年にイギリスの艦隊が鹿児島を砲撃した戦いを何といいますか。
薩摩藩とイギリスの戦いです。
答え:薩英戦争
標準長州藩が1863年と1864年に外国と戦ったようすを、年ごとに説明しなさい。
表の「長州藩」の欄で確かめます。
答え:1863年は下関海峡を通る外国船を砲撃し、1864年は4か国の艦隊に下関の砲台を攻撃されて占領された。
大政奉還と戊辰戦争:江戸幕府はどのようにほろんだ?
📄 プリント17ページ
答え:1867年、15代将軍の徳川慶喜が政権を朝廷に返し(大政奉還)、同じ年に王政復古の大号令が出て幕府が廃止されました。1868年から戊辰戦争が起こり、1869年に旧幕府軍が降伏して、新政府が国内を統一しました。
- 1867年、15代将軍の徳川慶喜が、政権を朝廷に返した(大政奉還)。新しい政治でも徳川家が中心でいられると考えていた
- 同じ1867年、西郷隆盛・大久保利通や公家の岩倉具視らが朝廷を動かして王政復古の大号令を出し、幕府を廃止して天皇中心の政治にもどすと宣言した
- さらに、慶喜に官職や領地を返させることを決めた。旧幕府側は強く反発した
- 1868年、京都の鳥羽・伏見の戦いから、新政府軍と旧幕府軍の戦いが始まった(戊辰戦争)
- 新政府軍は江戸に進み、西郷隆盛と旧幕府の勝海舟の話し合いで江戸城が戦わずに明けわたされた。会津など東北の藩も破った
- 1869年、函館の五稜郭で旧幕府軍が降伏し、新政府が国内を統一した
1603年から続いた江戸幕府は、1867年にほろびました。
覚え方:「慶喜が返して、王政が復古」。
まちがえやすい
✕ 大政奉還で、すぐに戦いが終わった → ◯ 大政奉還のあとも、戊辰戦争が1869年まで続いた
基本戊辰戦争のとき、江戸城が戦わずに明けわたされたのは、だれとだれの話し合いによるものですか。
新政府軍の側と、旧幕府の側の話し合いです。
答え:西郷隆盛と勝海舟
標準戊辰戦争のできごとを、古い順に並べなさい。ア 五稜郭で旧幕府軍が降伏した イ 鳥羽・伏見の戦いが起こった ウ 江戸城が明けわたされた エ 会津など東北の藩が破られた
鳥羽・伏見の戦い(1868年)から始まり、新政府軍は江戸に進んでから東北へ向かいます。五稜郭の戦いは1869年です。
答え:イ → ウ → エ → ア
なぜ江戸幕府はほろんだ? クラゲチャートと年表
📄 プリント18ページ
答え:市民革命と産業革命で力をつけた欧米の国々がアジアに進出して日本に開国をせまり、幕府が不平等な条約を結んで権威が落ち、物価の上昇で人々の不満が高まり、力をつけた薩摩藩と長州藩が手を結んで倒幕に動いたからです。
| 足 | 理由 |
|---|---|
| ① 欧米の進出 | 市民革命と産業革命で力をつけた欧米の国々が、原料と市場を求めてアジアに進出し、日本にも開国をせまった |
| ② 開国と不平等条約 | 朝廷の許可を得ないまま不平等な条約を結び、尊王攘夷の運動が高まって、幕府の権威が落ちた |
| ③ 暮らしの混乱 | 物価が上がり、生活に苦しむ人々が世直しを求めて一揆や打ちこわしを起こした |
| ④ 雄藩の動き | 攘夷に失敗した薩摩藩と長州藩が軍備を強め、薩長同盟を結んで倒幕に動いた |
頭の問い「江戸幕府がほろんだ(1867年)」に、4つの足を①から順につなげて答えます。
| 年 | 世界のできごと | 年 | 日本のできごと |
|---|---|---|---|
| 1688年 | 名誉革命(イギリス) | 1853年 | ペリーが浦賀に来る |
| 1776年 | アメリカの独立宣言 | 1854年 | 日米和親条約 |
| 1789年 | フランス革命・人権宣言 | 1858年 | 日米修好通商条約・安政の大獄(〜1859年) |
| 1804年 | ナポレオンが皇帝になる | 1860年 | 桜田門外の変 |
| 1840年 | アヘン戦争 | 1863年 | 薩英戦争・長州藩が外国船を砲撃 |
| 1851年 | 太平天国の乱 | 1866年 | 薩長同盟 |
| 1857年 | インド大反乱 | 1867年 | 大政奉還・王政復古の大号令 |
| 1861年 | 南北戦争 | 1868年 | 戊辰戦争が始まる |
問いの答えの例:市民革命と産業革命で力をつけた欧米の国々が、アジアに進出し、日本にも開国をせまりました。幕府が朝廷の許可を得ずに不平等な条約を結ぶと幕府の権威が落ち、貿易で物価が上がって人々の不満も高まりました。そこで薩摩藩と長州藩が手を結んで倒幕に動き、1867年に江戸幕府はほろびました。
まちがえやすい
✕ 江戸幕府は、1853年のペリー来航の年にほろびた → ◯ ペリー来航は1853年、幕府がほろびたのは1867年
標準1853年のペリー来航から、1867年の大政奉還まで、何年かかりましたか。また、この期間は何世紀にあたりますか。
年の差:1867−1853=14(年)
19世紀は1801〜1900年です。1853年も1867年もこの範囲に入ります。
答え:14年、19世紀
✅ 一問一答で総チェック(20問)
問題を読んで、答えを頭の中で言ってからタップしましょう。答えが出ます。
-
17世紀の中ごろ、クロムウェルの指導する議会側が国王を処刑し、国王のいない政治を始めた革命を何といいますか。
答え:ピューリタン革命
-
1688年、議会が国王を国外に追い、オランダから新しい国王をむかえた、血を流さない革命を何といいますか。
答え:名誉革命
-
1689年に議会が定め、議会の承認がなければ国王は税を取ることができないとした決まりを何といいますか。
答え:権利章典
-
1776年に発表された、「すべての人は平等につくられ」とうたった宣言を何といいますか。
答え:独立宣言
-
『社会契約論』で、主権は人民にあると説いたフランスの思想家はだれですか。
答え:ルソー
-
1789年にパリの民衆が牢獄をおそったことから始まり、国王の政治をたおした革命を何といいますか。
答え:フランス革命
-
1804年に皇帝になり、同じ年に民法を定めた軍人はだれですか。
答え:ナポレオン
-
「鉄と血」で軍備を強め、1871年にドイツ帝国をつくったプロイセン王国の首相はだれですか。
答え:ビスマルク
-
1863年に奴隷解放宣言を出した、南北戦争のときの北部の大統領はだれですか。
答え:リンカン
-
18世紀後半に石炭を燃やして機械を動かす装置を改良し、産業革命を進めた人物はだれですか。
答え:ワット
-
貧富の差をなくすため、土地や工場を社会全体のものにして平等な社会をつくろうとする考えを何といいますか。
答え:社会主義
-
イギリス・インド・清の3つの地域を結んで行われた貿易を何といいますか。
答え:三角貿易
-
1842年に結ばれ、清が香港をイギリスにゆずった条約を何といいますか。
答え:南京条約
-
1853年に4隻の軍艦を率いて浦賀に来たアメリカの使節はだれですか。
答え:ペリー
-
1854年に結ばれ、下田と函館の2つの港を開いた条約を何といいますか。
答え:日米和親条約
-
日本で罪をおかした外国人を、その国の領事がその国の法律で裁く権利を何といいますか。
答え:領事裁判権
-
1860年、水戸藩などの元藩士たちが、江戸城の桜田門の外で大老の井伊直弼を暗殺した事件を何といいますか。
答え:桜田門外の変
-
1866年、坂本龍馬らの仲立ちで、薩摩藩と長州藩が結んだ同盟を何といいますか。
答え:薩長同盟
-
1867年、15代将軍の徳川慶喜が政権を朝廷に返したことを何といいますか。
答え:大政奉還
-
1868年の鳥羽・伏見の戦いから、1869年の五稜郭の戦いまで続いた、新政府軍と旧幕府軍の戦いを何といいますか。
答え:戊辰戦争
まとめ
17〜19世紀の欧米では、イギリス(名誉革命・権利章典)、アメリカ(独立宣言)、フランス(人権宣言)で市民革命が起こり、国王の力をおさえて人々が政治に参加する国づくりが進みました。産業革命で工業の力をつけた欧米の国々は、原料と市場を求めてアジアに進出し、アヘン戦争(1840年)に勝ったイギリスは、南京条約で香港を手に入れました(台湾などを日本にゆずったのは、のちの日清戦争の下関条約です)。日本も1853年のペリー来航で開国し、1858年の日米修好通商条約で領事裁判権を認め関税自主権が無い不平等な条約を結びました。物価の上昇と尊王攘夷の高まりの中で、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結んで倒幕に動き、1867年の大政奉還のあと、江戸幕府はほろびました。プリントの確認問題で、年号の順と記述を手を動かして練習してみてください。
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▶ 欧米の近代化とアジア侵略 授業用プリント(全24ページ)
説明 1〜18ページ/確認問題 19〜21ページ/覚えることの一覧 22ページ/答えと解説 23・24ページ

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