⏱ 30秒でわかる この単元の要点
- ルネサンスは14世紀にイタリアで始まり、1517年にルターが宗教改革を始めて、キリスト教はカトリックとプロテスタントに分かれた。
- コロンブス(1492年)・バスコ・ダ・ガマ(1498年)・マゼランの船隊(1519〜1522年)が新航路を開き、ヨーロッパの人々はアジアの海に来て、1543年に鉄砲、1549年にキリスト教が日本に伝わった。
- 織田信長は、桶狭間の戦い(1560年)・長篠の戦い(1575年)に勝ち、室町幕府をほろぼし、楽市・楽座で商業をさかんにしたが、1582年の本能寺の変で自害した。
- 豊臣秀吉は、関白になって朝廷の権威を使い、1590年に全国を統一し、太閤検地と刀狩で兵農分離を進めた。
- 秀吉はバテレン追放令を出し、朝鮮に2度出兵した。この時代の桃山文化は、大名や豪商の力を背景にした豪華で壮大な文化。
つまずき注意:室町幕府をほろぼしたのは信長(1573年)。全国を統一したのは秀吉(1590年)。
中2社会(歴史)「ヨーロッパ人の世界進出と天下統一」を、図と例題で1つずつ確かめるページです。この単元は、「ヨーロッパの動き → 日本に来た鉄砲とキリスト教 → 信長と秀吉の統一」という流れでつながっています。年とできごとを、原因と結果で結んで覚えるのがこつです。どの見出しも「答え → 理由 → 表・図 → 例題」の順に書いています。紙に書いて練習したい人は、下の無料プリントを使ってください。
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説明 1〜16ページ/確認問題 17〜19ページ/覚えることの一覧 20ページ/答えと解説 21・22ページ。この記事の見出しごとに、対応するページを書いています。
ヨーロッパでは新しい文化がどう生まれた? ルネサンスと宗教改革
📄 プリント2・3ページ
答え:ルネサンス(文芸復興)は、14世紀に貿易で栄えたイタリアの都市で始まり、古代のギリシャやローマの文化を学び直して、人間のいきいきとした姿を表そうとした動きです。16世紀の初めには、1517年にドイツのルターが始めた宗教改革で、キリスト教が2つに分かれました。
中世のヨーロッパ:西ヨーロッパでは、キリスト教のカトリック教会と、その頂点にいるローマ教皇が大きな力をもっていました。中1で学んだ十字軍(聖地エルサレムを取りもどそうとした遠征)の後は、イスラム世界との貿易がさかんになり、フィレンツェ・ベネチアなどのイタリアの都市が栄えました。イスラム世界で受けつがれ、発達していた古代ギリシャ・ローマの学問も、そこに伝わりました。
ルネサンスの広がり:14世紀にイタリアで始まり、16世紀にかけてヨーロッパに広がりました。
- 芸術:レオナルド・ダ・ビンチが絵画「モナ・リザ」を、ミケランジェロが「ダビデ」の像をつくりました。
- 科学:コペルニクスが地動説(地球が太陽の周りを回る)をとなえ、ガリレイが望遠鏡で天体を観測して、地動説を支持しました。
- 技術:中国からイスラム世界を通じて伝わった羅針盤(方位を知る道具)は遠い海の航海につながり、火薬は鉄砲につながりました。15世紀中ごろ、ドイツのグーテンベルクが活版印刷を実用化し、本がたくさん作られるようになりました。
| 中世 | ルネサンス | |
|---|---|---|
| 中心にしたもの | 神と教会の教え | 人間 |
| 絵や像・学問 | 神や聖人を形どおりに。教会の教えを学ぶ | 人間の体や表情をいきいきと。古代の学問と観察 |
宗教改革の流れ:
- ローマ教皇が、大聖堂を建てる費用を集めるため、免罪符(「買えば罪が許される」とされたふだ)を売り出す。
- 1517年、ドイツのルターがこれを批判し、「人は信仰によって救われる。聖書だけが信仰のよりどころだ」と主張する。
- ルターが聖書をドイツ語に訳し、それが活版印刷で広まる。
- スイスのカルバンも改革を進め、職業にはげむことも神の教えにかなうと説く。
- カトリック教会からはなれて改革を支持した人々が、プロテスタント(もとの意味は「抗議する者」)とよばれ、キリスト教は2つに分かれる。
| カトリック | プロテスタント | |
|---|---|---|
| よりどころ | ローマ教皇と教会の教え | 聖書 |
| 広まった所 | 南ヨーロッパなど | ドイツ・スイスなど北の方(カルバンの教えは商工業者に広まった) |
| その後 | イエズス会をつくり、海外に布教 | カトリック教会からはなれた人々がふえた |
イエズス会は、プロテスタントが広がり、カトリック教会からはなれる人がふえたため、教会を立て直そうとつくられた団体です。ヨーロッパの外で信者をふやそうと、アジアやアメリカ大陸に宣教師(キリスト教を広める人)を送りました。フランシスコ・ザビエルもその一人です。
理由:羅針盤・火薬・活版印刷が、遠い海への航海や、鉄砲、宗教改革につながりました。
まちがえやすい
✕ ルネサンスは、古代の文化をすてて、新しい神の教えを広めた動きだった → ◯ 古代ギリシャ・ローマの文化を学び直し、人間のいきいきとした姿を表そうとした
✕ 宗教改革は、ローマ教皇がルターの教えを批判して始まった → ◯ ルターが、ローマ教皇の免罪符の販売を批判して始まった
基本地動説をとなえた人物を、次から選びなさい。ア レオナルド・ダ・ビンチ イ コペルニクス ウ グーテンベルク
地球が太陽の周りを回るという考えをとなえたのは、科学の分野の人物です。
答え:イ(コペルニクス)
標準ルターが聖書をドイツ語に訳した本が広まったのは、ルネサンスの時代に実用化された、何という技術のおかげですか。
15世紀中ごろ、ドイツのグーテンベルクが実用化し、本がたくさん作られるようになりました。
答え:活版印刷
標準プロテスタントとは、もとはどんな意味の言葉ですか。
カトリック教会からはなれて、ルターらの改革を支持した人々のよび名です。
答え:「抗議する者」
ヨーロッパの人々はなぜ海に乗り出した? 大航海時代とアメリカ大陸・アフリカ・アジア
📄 プリント4・5ページ
答え:大航海時代は、15世紀の終わりから、ヨーロッパの国々が新しい航路を開き、世界の海に乗り出していった時代です。高価なアジアの香辛料を直接取り引きするために、アジアへの海の新しい道(新航路)を求めました。
理由:香辛料(こしょうなど)や絹織物などは、イスラム商人やイタリアの商人を通してヨーロッパに運ばれ、とても高かったので、アジアと直接取り引きしようとしたのです。ほかにも、キリスト教を世界に広めたい思いと、羅針盤や船・航海術の進歩で遠い海を行けるようになったこと、スペインとポルトガルの王が航海を援助したことがありました。
← 横にずらすと続きが見えます →出典:地図:Natural Earth
| 人 | 援助した国 | 年 | 進んだ道 | 着いた所 |
|---|---|---|---|---|
| コロンブス | スペイン | 1492年 | 大西洋を西へ | 西インド諸島 |
| バスコ・ダ・ガマ | ポルトガル | 1498年 | アフリカの南の端を回る | インド |
| マゼランの船隊 | スペイン | 1519〜1522年 | 南アメリカの南の端を回って太平洋へ。マゼランは途中のフィリピンで亡くなり、船隊が1522年に帰って初めて世界一周 | スペインに帰る |
航路は、「どの国が出発し、どの向きに進んだか」で人と結びつけて読みます。
ヨーロッパ人の進出先:
- アメリカ大陸:スペインは軍隊を送り、16世紀の前半に、メキシコのアステカ王国と、南アメリカのアンデス山脈のインカ帝国をほろぼしました。スペイン人は、先住民(その土地に昔から住んでいた人々)を、銀の鉱山や農園できびしく働かせました。ヨーロッパ人が持ちこんだ病気(天然痘など)も広がり、先住民の人口は大きく減りました。
- アフリカ:働く人が足りなくなると、アフリカの人々を奴隷としてアメリカ大陸へ連れてきて働かせました。アメリカ大陸の銀は大量にヨーロッパへ運ばれ、じゃがいも・とうもろこし・トマトなどもヨーロッパに伝わりました。
- アジア:ポルトガルは、インドのゴア・東南アジアのマラッカ・中国のマカオに拠点を置き、アジアの香辛料や生糸の貿易を行いました。スペインは、フィリピンのマニラに拠点を置きました。こうしてポルトガル人やスペイン人が東アジアの海にも来て、日本にも来るようになりました。
| スペイン | ポルトガル | |
|---|---|---|
| 援助した航海者 | コロンブス・マゼラン | バスコ・ダ・ガマ |
| アメリカ大陸 | 中部・南部の広い範囲(ブラジルをのぞく) | ブラジル |
| アフリカ・アジアの拠点 | マニラ | アフリカの海岸ぞい・ゴア・マラッカ・マカオ |
国ごとの進出先は、「国 → 援助した航海者 → 進んだ道 → 進出した所」とつなげて整理すると、取りちがえません。
まちがえやすい
✕ コロンブスは、アフリカの南の端を回ってインドに着いた → ◯ 大西洋を西へ進み、西インド諸島に着いた(インドに着いたのはバスコ・ダ・ガマ)
✕ アメリカ大陸の先住民は、ヨーロッパの人々と対等に貿易をして豊かになった → ◯ アステカ王国やインカ帝国がほろぼされ、きびしい労働と病気で人口が大きく減った
基本バスコ・ダ・ガマは、どの国の援助を受けて、どこを回って、どこに着きましたか。
上の表で、バスコ・ダ・ガマの行を読みます。
答え:ポルトガルの援助を受けて、アフリカの南の端を回り、インドに着いた。
標準コロンブス・バスコ・ダ・ガマ・マゼランの船隊の航海を、古い順に並べなさい。
年を比べます。コロンブスは1492年、バスコ・ダ・ガマは1498年、マゼランの船隊は1519〜1522年です。
答え:コロンブス → バスコ・ダ・ガマ → マゼランの船隊
標準ポルトガルが拠点を置いたゴア・マラッカ・マカオのうち、中国にあるのはどれですか。
ゴアはインド、マラッカは東南アジア、マカオは中国です。
答え:マカオ
基本16世紀の前半に、スペインがほろぼした2つの国を答えなさい。
メキシコの国と、南アメリカのアンデス山脈の国です。
答え:アステカ王国とインカ帝国
鉄砲の伝来は、戦い方をどう変えた?
📄 プリント6ページ
答え:1543年、ポルトガル人を乗せた中国人の船が種子島(今の鹿児島県)に流れ着き、鉄砲が日本に伝えられました。鉄砲が広まると、戦い方は足軽の鉄砲隊を組み合わせた集団の戦いに変わり、城も平地の城がふえました。
鉄砲が広まるまで:
- 1543年、ポルトガル人を乗せた中国人の船が、種子島に流れ着く。
- 島の領主が鉄砲を買い、刀をつくる職人に作り方を学ばせる。
- まもなく、堺(大阪府)や国友(滋賀県)などで大量に作られる。
- 全国の戦国大名に広まる。
| 前 | 後 | |
|---|---|---|
| 戦い方 | 馬に乗った武士の一騎打ちや弓矢が中心 | 足軽(身分の低い兵)の鉄砲隊を組み合わせた、集団の戦い |
| 城 | 山の上の城 | 石垣と堀で守りを固めた、平地の城(城下町とひとつになった城)がふえた |
理由:鉄砲を多くそろえた大名が強くなり、全国の統一が早まりました。
年を並べかえる問題は、年を思い出して小さい順に並べます。
まちがえやすい
✕ 鉄砲は、1543年にスペイン人が長崎に伝えた → ◯ ポルトガル人を乗せた中国人の船が種子島に流れ着き、伝えた
基本鉄砲が日本に伝わったとき、種子島に流れ着いた船は、どこの国の人の船で、だれを乗せていましたか。
1543年のできごとです。船と、乗っていた人の国が別なことに注意します。
答え:中国人の船で、ポルトガル人を乗せていた。
標準鉄砲が広まる前と後で、戦い方はどう変わりましたか。
上の表の「戦い方」の行で、前と後を比べます。
答え:馬に乗った武士の一騎打ちや弓矢が中心だったのが、足軽の鉄砲隊を組み合わせた集団の戦いになった。
標準次の3つのできごとを、古い順に並べなさい。ア 鉄砲の伝来 イ ルターが宗教改革を始める ウ 桶狭間の戦い
年を思い出します。ア 1543年、イ 1517年、ウ 1560年です。
答え:イ → ア → ウ
キリスト教の伝来と南蛮貿易は、日本に何をもたらした?
📄 プリント7ページ
答え:1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、日本に初めてキリスト教を伝えました。ポルトガル人やスペイン人との南蛮貿易では、生糸・鉄砲などを輸入し、おもに銀を輸出しました。
キリスト教の伝来:ザビエルは、山口・京都・豊後(今の大分県)などで布教しました。その後も宣教師が来て、教会(南蛮寺)・学校・病院などをつくり、西日本を中心に信者がふえました。日本のキリスト教の信者をキリシタンといいます。
キリシタン大名は、キリスト教の信者になった大名です。九州の大友宗麟・有馬晴信・大村純忠などがいます。宣教師を保護すると貿易の利益が得られるので、布教を認めた大名が多くいました。1582年には、この3人が4人の少年をローマ教皇のもとへ送りました(天正遣欧使節)。
南蛮貿易:ポルトガル人やスペイン人(南の方から来たので南蛮人とよばれた)との貿易で、おもに長崎・平戸(長崎県)で行われました。
| 輸入 | 輸出 |
|---|---|
| 生糸・絹織物・鉄砲・火薬など | おもに銀 |
理由:南蛮貿易で、大名は鉄砲や火薬、商人は大きな富を手に入れました。
まちがえやすい
✕ 南蛮人とは、中国から来た人々のことだ → ◯ 南の方から来たポルトガル人やスペイン人のこと
基本南蛮貿易で、日本が輸入した物を3つ以上書きなさい。
輸入は、生糸・絹織物・鉄砲・火薬などです。日本が輸出したのは、おもに銀です。
答え:生糸・絹織物・鉄砲・火薬のうち3つ以上
標準1582年に、九州の大名が4人の少年をローマ教皇のもとへ送った使節を何といいますか。
大友宗麟・有馬晴信・大村純忠の3人が送りました。
答え:天正遣欧使節
織田信長は、どのように全国統一を進めた?
📄 プリント8ページ
答え:織田信長は、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破って名を上げ、1575年の長篠の戦いでは鉄砲を大量に使って武田勝頼の騎馬隊を破りました。1573年には室町幕府をほろぼしましたが、1582年に本能寺の変で自害し、全国統一は果たせませんでした。
- 1560年、尾張の織田信長が、桶狭間の戦いで、駿河の今川義元を破る。
- 1568年、足利義昭を立てて京都に上る。
- 1571年、敵に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにする。
- 1573年、対立した義昭を京都から追放し、室町幕府をほろぼす。
- 1575年、長篠の戦いで武田勝頼を破る。
- 1576年、琵琶湖の東のほとりに安土城を築き始める。
- 1580年、一向一揆の中心の石山本願寺を降伏させる。
- 1582年、京都の本能寺で、家臣の明智光秀にそむかれて自害する。
長篠の戦いは、織田信長が徳川家康と連合して、鉄砲を大量に使い、武田勝頼の騎馬隊を破った戦いです。鉄砲伝来のところで学んだ「足軽の鉄砲隊を組み合わせた集団の戦い」の例です。
理由:信長は鉄砲を生かした戦いで強い大名を破り、将軍や寺の勢力もおさえました。
まちがえやすい
✕ 室町幕府をほろぼしたのは、豊臣秀吉だ → ◯ 1573年、織田信長が将軍の足利義昭を京都から追放してほろぼした
基本1560年の桶狭間の戦いで、織田信長が破った駿河の武将はだれですか。
信長が名を上げた戦いです。
答え:今川義元
標準長篠の戦いで、織田信長はだれと連合して、どんな武器を使って、だれの軍を破りましたか。
1575年の戦いです。連合した相手、使った武器、破った相手の3つを入れます。
答え:徳川家康と連合し、鉄砲を大量に使って、武田勝頼の騎馬隊を破った。
標準次の3つのできごとを、古い順に並べなさい。ア 本能寺の変 イ 室町幕府がほろびる ウ 桶狭間の戦い
年を思い出します。ア 1582年、イ 1573年、ウ 1560年です。
答え:ウ → イ → ア
信長は、なぜ商業をさかんにした? 楽市・楽座と関所の廃止
📄 プリント9ページ
答え:信長は、安土の城下町などで楽市・楽座を行い、各地の関所を廃止して、商工業をさかんにしました。戦いに必要な富を集めるためです。
安土は、琵琶湖の東のほとりで、京都に近く、水運と東西の道が通る所です。
楽市・楽座:安土の城下町などで、市の税を免除し、座(中1で学んだ、商工業者の同業者の組合で、特権をもつ)の特権をなくして、だれでも自由に商売ができるようにした政策です。
- 【楽市の前】座に入っていない商人は、その品物を売れない。運ぶ途中の関所ごとに、通行料を取られる。
- 【楽市の後】安土の市では、税を払わず、座に入らなくても自由に売れる。関所がなくなり、品物を運びやすくなる。
- 商人や職人が城下町に集まり、商工業がさかんになる。
関所の廃止は、各地の関所で通行料を取られていたのをやめさせ、人や物の行き来を自由にした政策です。
堺の支配:自治都市の堺は、豪商(大商人)が自分たちで治めていて、鉄砲の産地でした。信長は堺を従わせて直接支配し、富と鉄砲を手に入れました。
| 政策 | 何をした | ねらい |
|---|---|---|
| 楽市・楽座 | 市の税を免除し、座の特権をなくす | 商人や職人を集め、商工業をさかんにする |
| 関所の廃止 | 通行料を取る関所をやめさせる | 人や物の行き来を自由にして、商業をさかんにする |
| 堺の支配 | 自治都市の堺を従わせて、直接支配する | 富と鉄砲を手に入れる |
| 仏教勢力をおさえる | 延暦寺・一向一揆を、武力でおさえる | 武力をもって従わない勢力をなくす |
| キリスト教の保護 | 宣教師の布教を認める | 南蛮貿易の利益を得る。仏教勢力に対抗する |
まちがえやすい
✕ 楽市・楽座は、市の税を重くして、座の商人に商売を任せた政策だ → ◯ 市の税を免除し、座の特権をなくして、だれでも自由に商売できるようにした
基本楽市・楽座の「楽座」で、特権をなくしたのは何ですか。
商工業者の同業者の組合で、特権をもっていたものです。
答え:座
標準信長が堺を従わせて直接支配したことで、手に入れた物を2つ書きなさい。
堺は、豪商が治める自治都市で、鉄砲の産地でした。
答え:富と鉄砲
理由信長が、キリスト教の布教を認めたねらいを、2つ書きなさい。
上の表の「キリスト教の保護」の行です。貿易と、仏教勢力の2つの面から書きます。
答え:南蛮貿易の利益を得ること。仏教勢力に対抗すること。
豊臣秀吉は、どのように全国を統一した?
📄 プリント10ページ
答え:本能寺の変の後、信長の後をついだ豊臣秀吉は、1590年に小田原の北条氏をほろぼし、東北の大名も従えて全国を統一しました。秀吉は関白になって朝廷の権威を使い、幕府は開きませんでした。
秀吉は尾張の身分の低い家に生まれ、信長の家臣になって活躍しました。
- 1582年、本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を破り、信長の後継者の地位を固める。
- 1583年から、石山本願寺の跡に大阪城を築き、政治と経済の拠点にする。
- 1585年、朝廷から関白に任じられる。
- 1587年、四国に続いて九州の大名を従える。
- 1590年、小田原(神奈川県)の北条氏をほろぼし、東北の大名も従えて、全国を統一する。
関白は、天皇を助けて政治を行う職です(中1の摂関政治)。秀吉は1585年に関白、翌年には太政大臣になり、豊臣の姓をあたえられました。
朝廷の権威を使う:秀吉は、関白や太政大臣という朝廷の職についた権威を使い、全国の大名に戦いをやめるよう命じました。従った大名には領地を認め、家来にしました。秀吉は、幕府を開かず、征夷大将軍にもなりませんでした。
人物の問題は、「その人がついた職」と「その人が開いた幕府の有無」を分けて整理します。「関白」は朝廷の職の名前、「幕府」は武士の政治のしくみで、別のものです。
安土桃山時代は、織田信長と豊臣秀吉が全国統一を進めた時代です。信長の安土城と、秀吉が晩年に城を築いた伏見(のちに桃山とよばれた)から名づけられました。
まちがえやすい
✕ 秀吉は征夷大将軍になって、大阪に幕府を開いた → ◯ 秀吉は幕府を開かず、関白・太政大臣になって、朝廷の権威を使って大名を従わせた
基本本能寺の変の後、秀吉が明智光秀を破った戦いを何といいますか。
1582年のできごとで、秀吉が信長の後継者の地位を固めた戦いです。
答え:山崎の戦い
標準次の3つのできごとを、古い順に並べなさい。ア 秀吉が関白になる イ 北条氏がほろびる ウ 大阪城を築き始める
年を思い出します。ア 1585年、イ 1590年、ウ 1583年です。
答え:ウ → ア → イ
標準「安土桃山時代」の「安土」は、だれのどの城の名前に由来しますか。
「桃山」の方は、秀吉が晩年に城を築いた伏見に由来します。
答え:織田信長の安土城
信長と秀吉は、戦乱の世をどう終わらせた? くらべて整理
📄 プリント11ページ
答え:2人とも、鉄砲や大軍の力と、商業や鉱山の富の力で大名を従えました。ちがいは、信長は将軍を京都から追放し、秀吉は関白・太政大臣の職について朝廷の権威を使ったことです。全国を統一したのは秀吉です。
| 織田信長 | 豊臣秀吉 | |
|---|---|---|
| 拠点の城 | 安土城 | 大阪城 |
| 戦い | 鉄砲を生かして、強い大名を破る | 四国・九州・関東・東北を従えて、全国を統一する |
| 将軍・朝廷 | 室町幕府をほろぼす | 関白・太政大臣になり、朝廷の権威を使う |
| 経済 | 楽市・楽座・関所の廃止・堺の支配 | 鉱山・金貨・重要な都市の支配 |
| 宗教 | 仏教勢力をおさえ、キリスト教を保護する | 初めは布教を認める |
秀吉の経済:秀吉は、石見銀山(島根県)・佐渡金山(新潟県)などの鉱山を直接支配し、大判などの金貨をつくりました。京都・大阪・堺・長崎などの重要な都市も直接支配しました。
くらべて考える:くらべるときは、同じ観点(戦い・経済・朝廷との関係)で2人を見て、「同じところ」と「ちがうところ」に分けると、整理できます。
| 同じところ | ちがうところ |
|---|---|
| 鉄砲や大軍の力と、商業や鉱山の富の力で、大名を従えた | 信長は将軍を京都から追放し、秀吉は関白・太政大臣の職について朝廷の権威を使った。仏教勢力は、信長がおさえた |
まちがえやすい
✕ 信長は、本能寺の変の前に全国の統一をなしとげた → ◯ 信長は統一の途中で本能寺の変でたおれ、全国を統一したのは秀吉(1590年)
基本石見銀山や佐渡金山などの鉱山を直接支配し、大判などの金貨をつくったのは、信長と秀吉のどちらですか。
上の表の「経済」の行を読みます。
答え:秀吉
標準信長と秀吉が、拠点にした城をそれぞれ答えなさい。
信長は琵琶湖の東のほとりに築き、秀吉は石山本願寺の跡に築きました。
答え:信長は安土城、秀吉は大阪城
発展信長と秀吉が、大名を従えた方法の「同じところ」を書きなさい。
戦い(力)と経済(富)の2つの面から書きます。
答え:鉄砲や大軍の力と、商業や鉱山の富の力で、大名を従えた。
秀吉は、なぜ検地と刀狩をした? 兵農分離
📄 プリント12ページ
答え:太閤検地は、田畑の面積や、とれる米の量を調べて石高で表した政策、刀狩は、百姓から武器を取り上げた政策です。2つの政策で、武士と百姓の身分の区別がはっきりする兵農分離が進みました。
太閤検地:1582年から秀吉が全国で行った、ものさしとますを統一して、田畑の面積と土地のよしあしを調べ、とれる米の量(収穫量)を石高で表した政策です。検地帳には、耕す百姓の名前を書きました。
百姓は、田畑を耕す権利を認められる代わりに、石高に応じた年貢を納める義務を負いました。荘園の領主だった公家や寺社の、土地についての権利はなくなりました。
石高は、田畑や村、大名の領地の大きさを、とれる米の量で表したものです(1石は、大人1人が1年に食べる米の量が目安)。大名は石高に応じて、戦いのときに兵を出す務めを負いました。
刀狩:1588年、秀吉が刀狩令を出し、百姓から刀・弓・やり・鉄砲などの武器を取り上げた政策です。百姓の一揆を防ぎ、百姓を農業に専念させるためでした。
兵農分離:太閤検地と刀狩によって、武士と百姓の身分の区別がはっきりしたことです。
| 中世 | 近世(秀吉から) | |
|---|---|---|
| 武士 | 村に住み、農業も行う | 城下町に住む |
| 百姓 | 武器をもち、戦いや一揆に加わる | 武器をもたず、田畑を耕して年貢を納める |
| 土地 | 荘園の領主など何人もの権利が重なる | 検地帳で、耕す百姓が決まる |
まちがえやすい
✕ 太閤検地は、百姓から武器を取り上げる政策だ → ◯ 太閤検地は田畑の面積やとれる米の量を調べる政策。武器を取り上げたのは刀狩
基本石高とは、何の量で、田畑や領地の大きさを表したものですか。
1石は、大人1人が1年に食べる米の量が目安です。
答え:とれる米の量
標準次はI村の検地帳(架空の例)です。三郎が耕す田畑の石高の合計は、何石ですか。
田(上)2反・3石・三郎/田(中)1反・1.2石・四郎/畑(中)1反・0.7石・三郎
耕す百姓の名前が三郎の行だけを足します。
3+0.7=3.7(石)
答え:3.7石
理由秀吉が刀狩を行ったのは、なぜですか。
「百姓の一揆」と「農業」の2つを入れて書きます。
答え:百姓の一揆を防ぎ、百姓を農業に専念させるため。
標準兵農分離が進むと、武士はどこに住むようになりましたか。
上の表の「武士」の行で、中世と近世を比べます。
答え:城下町
秀吉は、外国とどう向き合った? バテレン追放令と朝鮮侵略
📄 プリント13ページ
答え:秀吉は、1587年にバテレン追放令を出して宣教師を国外に追放しましたが、南蛮貿易はすすめました。国内の統一を終えた後は、明(中国)の征服をめざして、朝鮮に2度出兵しました(文禄の役・慶長の役)。
秀吉は初め、キリスト教の布教を認めていました。ところが1587年、九州を従えたとき、長崎がイエズス会の領地になっていることや、キリシタンが神社や寺をこわしていることを知り、宣教師を国外に追放するよう命じました。
バテレン追放令は、1587年に秀吉が出した、宣教師(バテレン)を国外に追放する命令です。南蛮貿易はすすめたので、取りしまりは徹底しませんでした。
朝鮮侵略の流れ:
- 秀吉は明(中国)を征服しようと考え、朝鮮に協力を求めたが、断られる。
- 1592年、肥前(今の佐賀県)の名護屋に城を築いて拠点にし、大軍を送って、朝鮮の都の漢城(今のソウル)を占領し、北へ進む(文禄の役)。
- 李舜臣の率いる朝鮮の水軍や、各地の民衆の義兵の抵抗、明の援軍で苦戦し、休戦する。
- 1597年、再び出兵する(慶長の役)。
- 1598年、秀吉の死で全軍が引きあげる。
| 影響 | |
|---|---|
| 朝鮮 | 国土があれ、多くの人々が命を落としたり、日本に連れてこられたりした。連れてこられた陶工が、有田焼(佐賀県)などの焼き物を始めた |
| 日本 | 大名の負担が重く、豊臣氏の政権が弱まる原因になった |
年表の問題は、何をする政策かを考え、前後の年のできごとの間に当てはめて決めます。
まちがえやすい
✕ バテレン追放令で、秀吉は南蛮貿易も禁止した → ◯ 宣教師を追放したが、南蛮貿易はすすめたので、取りしまりは徹底しなかった
基本秀吉が、朝鮮出兵の拠点とした城を築いたのは、どこですか。
肥前(今の佐賀県)の場所です。
答え:名護屋
標準文禄の役と慶長の役は、それぞれ何年に始まりましたか。
最初の出兵が文禄の役、再び出兵したのが慶長の役です。
答え:文禄の役は1592年、慶長の役は1597年
標準朝鮮侵略で朝鮮から日本に連れてこられた陶工が始めた、佐賀県の焼き物は何ですか。
上の表の「朝鮮」の行です。
答え:有田焼
理由バテレン追放令を出した後も、秀吉の宣教師の取りしまりが徹底しなかったのはなぜですか。
「南蛮貿易」の語を入れて書きます。
答え:秀吉は南蛮貿易はすすめたから。
桃山文化は、なぜ豪華なのか? 南蛮文化と民衆の文化
📄 プリント14・15ページ
答え:桃山文化は、信長・秀吉のころ、大名や大商人(豪商)の経済力と権力を背景に栄えた、豪華で壮大な文化です。仏教の影響がうすれ、現実の生活を楽しむ気風があり、ヨーロッパの影響も受けました。
| 何 | 例・だれ | 特色 | だれの力で |
|---|---|---|---|
| 城 | 安土城・大阪城・姫路城(兵庫県。白鷺城ともよばれ、世界遺産) | 高くそびえる天守をもつ壮大な城 | 大名の経済力と権力 |
| 絵 | 狩野永徳「唐獅子図屛風」 | 城のふすまや屛風に、金箔を使った地に、あざやかな色の障壁画をえがいた | 大名・豪商の経済力 |
| 茶の湯 | 千利休(堺の商人の出身) | 室町時代の茶の湯(中1)を受けつぎ、質素で静かな風情を工夫して楽しむわび茶を完成させた | 大名や豪商の間で、交わりの場として流行 |
南蛮文化:南蛮貿易と宣教師によって伝わった、ヨーロッパの文化です。天文学・医学・航海術のほか、活版印刷の技術も伝わり、ローマ字で日本語の本(『平家物語』など)が印刷されました。パン・カステラ・カルタ・タバコ・時計なども伝わりました。パン・カルタ・タバコは、ポルトガル語から来た言葉です。南蛮人や南蛮船をえがいた南蛮屛風もつくられました。
民衆の文化:京都で出雲の阿国が始めたかぶき踊りが人気を集め、のちの歌舞伎のもとになりました。琉球から伝わった楽器をもとに三味線がつくられ、三味線に合わせて物語を語る浄瑠璃も広まりました。衣服は、麻にかわって木綿が広まりました。
| 中世から受けついだ物 | 新しく加わった物 |
|---|---|
| 茶の湯・水墨画・書院造(中1) | 天守のある城・南蛮文化・かぶき踊り・三味線 |
理由:統一を進めた大名と豪商が、大きな富と力をもったことが、文化にも表れました。
まちがえやすい
✕ 桃山文化は、仏教の教えを大切にした、質素で落ち着いた文化だ → ◯ 大名や豪商の力を背景にした、豪華で壮大な文化(わび茶は、質素な風情を工夫して楽しんだ)
✕ かぶき踊りは、貴族が宮中で始めた踊りだ → ◯ 京都で出雲の阿国が始め、民衆の間で人気になった
基本桃山文化の城の例で、兵庫県にあり、世界遺産になっている城はどれですか。
白鷺城ともよばれる城です。
答え:姫路城
標準次のうち、ポルトガル語から来た言葉をすべて選びなさい。ア パン イ カルタ ウ 三味線 エ タバコ
南蛮文化で伝わった物のうち、パン・カルタ・タバコがポルトガル語から来た言葉です。三味線は、琉球から伝わった楽器をもとにつくられました。
答え:ア・イ・エ
標準千利休が完成させたわび茶は、どんな茶の湯ですか。
室町時代の茶の湯を受けつぎ、工夫したものです。
答え:質素で静かな風情を工夫して楽しむ茶の湯
✅ 一問一答で総チェック(20問)
問題を読んで、答えを頭の中で言ってからタップしましょう。答えが出ます。
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14世紀にイタリアで始まり、古代のギリシャやローマの文化を学び直して、人間のいきいきとした姿を表そうとした動きを何といいますか。
答え:ルネサンス
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地球が太陽の周りを回るという地動説をとなえた人物はだれですか。
答え:コペルニクス
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1517年に、ローマ教皇の免罪符の販売を批判して宗教改革を始めたドイツの人物はだれですか。
答え:ルター
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プロテスタントが広がった後、カトリック教会を立て直そうとつくられ、海外に宣教師を送った団体を何といいますか。
答え:イエズス会
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15世紀の終わりから、ヨーロッパの国々が新しい航路を開き、世界の海に乗り出していった時代を何といいますか。
答え:大航海時代
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スペインの援助で、1492年に大西洋を西へ進み、西インド諸島に着いた人物はだれですか。
答え:コロンブス
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ポルトガルの援助で、1498年にアフリカの南の端を回ってインドに着いた人物はだれですか。
答え:バスコ・ダ・ガマ
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16世紀の前半に、スペインにほろぼされた、メキシコにあった国は何ですか。
答え:アステカ王国
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1543年に、ポルトガル人を乗せた中国人の船が種子島に流れ着いて、日本に伝えられた武器は何ですか。
答え:鉄砲
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1549年に鹿児島に来て、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師はだれですか。
答え:フランシスコ・ザビエル
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南蛮貿易で、日本がおもに輸出した物は何ですか。
答え:銀
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1560年の桶狭間の戦いで、織田信長が破った駿河の武将はだれですか。
答え:今川義元
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1575年に、織田信長が徳川家康と連合して、鉄砲を大量に使い、武田勝頼の騎馬隊を破った戦いは何ですか。
答え:長篠の戦い
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安土の城下町などで、市の税を免除し、座の特権をなくして、だれでも自由に商売ができるようにした信長の政策は何ですか。
答え:楽市・楽座
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1573年に織田信長が、将軍の足利義昭を京都から追放してほろぼした幕府は何ですか。
答え:室町幕府
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1582年に、京都の本能寺で織田信長にそむいた家臣はだれですか。
答え:明智光秀
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1590年に豊臣秀吉がほろぼし、全国統一を果たすきっかけになった、小田原の大名は何氏ですか。
答え:北条氏
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秀吉が全国で行った、田畑の面積や、とれる米の量を調べて石高で表した政策は何ですか。
答え:太閤検地
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1588年に秀吉が出した、百姓から刀・弓・やり・鉄砲などの武器を取り上げる命令は何ですか。
答え:刀狩令
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千利休が完成させた、質素で静かな風情を工夫して楽しむ茶の湯を何といいますか。
答え:わび茶
まとめ
なぜ、約100年続いた戦乱の世が終わったのか:ヨーロッパでルネサンスと宗教改革が起こり、大航海時代にポルトガル人やスペイン人がアジアの海に来て、日本に鉄砲とキリスト教を伝えました。信長は鉄砲を生かした戦いと楽市・楽座などの政策で、秀吉は朝廷の権威と検地・刀狩などの政策で、力と富を使って大名を従え、約100年続いた戦乱の世を終わらせました。ヨーロッパ人との出会いが、日本の戦国時代を終わらせるきっかけになりました。
| 年 | できごと | 年 | できごと |
|---|---|---|---|
| 1492年 | コロンブスが西インド諸島に着く | 1575年 | 長篠の戦い |
| 1517年 | ルターが宗教改革を始める | 1582年 | 本能寺の変・太閤検地が始まる |
| 1522年 | マゼランの船隊が世界一周 | 1587年 | バテレン追放令 |
| 1543年 | 鉄砲の伝来 | 1588年 | 刀狩令 |
| 1549年 | キリスト教の伝来 | 1590年 | 秀吉が全国を統一 |
| 1560年 | 桶狭間の戦い | 1592・1597年 | 文禄の役・慶長の役 |
| 1573年 | 室町幕府がほろびる |
プリントの確認問題で、年とできごとを結ぶ練習と記述を、手を動かして練習してみてください。
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▶ ヨーロッパ人の世界進出と天下統一 授業用プリント(全22ページ)
説明 1〜16ページ/確認問題 17〜19ページ/覚えることの一覧 20ページ/答えと解説 21・22ページ

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