⏱ 30秒でわかる この単元の要点
- 1180年に伊豆で兵を挙げた源頼朝は、1185年に壇ノ浦の戦いで平氏をほろぼし、守護と地頭を置くことを認めさせ、1192年に征夷大将軍になった
- 将軍と御家人は、土地を仲立ちにした御恩と奉公で結ばれていた。守護は国ごとに軍事・警察、地頭は荘園や公領ごとに土地の管理と年貢の取り立てを行った
- 頼朝の死後は北条氏が執権として幕府を動かした。1221年の承久の乱に勝って西日本に力を広げ、京都に六波羅探題を置き、1232年に北条泰時が御成敗式目を定めた
- 鎌倉文化は素朴で力強く、東大寺南大門の金剛力士像や『平家物語』が代表。新しい仏教は、念仏の法然・親鸞・一遍、題目の日蓮、座禅の栄西・道元が開いた
- チンギス・ハンのモンゴル帝国を、孫のフビライ・ハンが元とした。元寇は1274年の文永の役と1281年の弘安の役で、元寇のあとは恩賞が足りず、1297年の徳政令でも御家人の不満が高まった
つまずき注意:守護は国ごと、地頭は荘園や公領ごと。浄土真宗を開いたのは親鸞で、法然は浄土宗。防塁は文永の役のあとに築かれた。モンゴル帝国をつくったのはチンギス・ハンで、フビライは孫。
中1社会(歴史)の「鎌倉幕府と武士の世」を、図と例題で1つずつ確かめるページです。源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、将軍と御家人を結んだ御恩と奉公のしくみ、承久の乱、元寇、そして元寇のあとに幕府がゆらぐまでの流れを、年号とともに学びます。どの見出しも「答え → 図 → 理由 → 解き方」の順に書いています。紙に書いて練習したい人は、下の無料プリントを使ってください。
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説明 1〜12ページ/確認問題 13〜15ページ/覚えることの一覧 16ページ/答えと解説 17・18ページ。この記事の見出しごとに、対応するページを書いています。
- 源平の争乱から元寇のあとまで:鎌倉時代の流れ
- 源頼朝はどのように鎌倉幕府を開いた? 守護・地頭と征夷大将軍
- 将軍と御家人は、何で結びついていた? 御恩と奉公
- 北条氏の執権政治と承久の乱、御成敗式目
- 鎌倉時代の武士と農民のくらし:館・二毛作・定期市
- 鎌倉文化:武士の気風に合った文学と建物・彫刻
- 新しい仏教は、なぜ武士や民衆に広まった? 念仏・題目・座禅
- 中世のユーラシア:イスラム世界の広がりと十字軍
- モンゴル帝国は、ユーラシアをどう結びつけた?
- 元が攻めてきたとき、幕府と御家人はどう戦った? 文永の役と弘安の役
- 元寇のあと、なぜ幕府はゆらぎはじめた? 徳政令
- 武士はなぜ政権を打ち立てることができた? 流れのまとめと年表
- まとめ
源平の争乱から元寇のあとまで:鎌倉時代の流れ
📄 プリント1ページ
答え:武士が政治の中心となった、鎌倉時代から室町時代(戦国時代をふくむ)までを中世といいます。鎌倉時代は、1180年に源頼朝が兵を挙げてから、1185年に平氏がほろび、1192年に頼朝が将軍になり、1221年の承久の乱、1232年の御成敗式目、1274年・1281年の元寇、1297年の徳政令へと進みます。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1180年 | 頼朝が兵を挙げる |
| 1185年 | 平氏がほろびる |
| 1192年 | 頼朝が将軍になる |
| 1221年 | 承久(じょうきゅう)の乱 |
| 1232年 | 御成敗式目(ごせいばいしきもく) |
| 1274年・1281年 | 元寇(げんこう) |
| 1297年 | 徳政令(とくせいれい) |
この単元で学ぶこと(この記事の見出しも、この順です):①鎌倉幕府の成立 ②執権政治と承久の乱 ③武士と民衆のくらし ④鎌倉時代の文化と宗教 ⑤中世のユーラシア ⑥モンゴルの襲来
理由:平清盛が武士として初めて政治の実権をにぎったあと、源頼朝が鎌倉に武士の政権(幕府)を開きます。ここから武士が政治を動かす時代が本格的に始まるので、まず年表で大きな流れをつかんでおくと、あとの見出しがつながります。
まちがえやすい
✕ 中世は、鎌倉時代だけをさす → ◯ 鎌倉時代から室町時代(戦国時代をふくむ)まで
基本武士が政治の中心となった、鎌倉時代から室町時代(戦国時代をふくむ)までの時代区分を、何といいますか。
平安時代までは貴族が政治の中心でした。武士が中心になった時代をひとまとめにした言い方です。
答え:中世
標準文永の役は1274年、徳政令は1297年です。文永の役から徳政令まで、何年ありますか。
どちらも西暦なので、新しい年から古い年をひきます。
1297−1274=23(年)
答え:23年
源頼朝はどのように鎌倉幕府を開いた? 守護・地頭と征夷大将軍
📄 プリント2ページ
答え:1180年に伊豆で兵を挙げた源頼朝は、1185年に壇ノ浦の戦いで平氏をほろぼし、守護と地頭を置くことを朝廷に認めさせ、1192年に征夷大将軍になりました。頼朝が開いた、鎌倉を中心とする武士の政権が鎌倉幕府です。
- 1180年、伊豆にいた源頼朝が兵を挙げ、鎌倉を拠点にする
- 頼朝の弟の源義経らが、平氏を西へ追いつめる
- 1185年、壇ノ浦の戦い(今の山口県)で、平氏がほろびる
頼朝が鎌倉を拠点にしたのは、鎌倉が、三方を山に、南を海に囲まれ、敵が攻めにくい土地だったからです。
頼朝は、義経をとらえることを理由に、1185年、朝廷に守護と地頭を置くことを認めさせました。
| 守護 | 地頭 | |
|---|---|---|
| どこに置く | 国ごと | 荘園や公領ごと |
| 何をする | 軍事・警察(御家人〈将軍に仕える武士〉をまとめ、犯罪を取りしまる) | 土地の管理と年貢の取り立て |
征夷大将軍と幕府:1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命されました。もともとは蝦夷を従わせるための軍の総大将でしたが、頼朝のあとは、武士のかしら(幕府の長)を表す地位になっていきました。幕府が鎌倉にあった約150年間を鎌倉時代といいます。
幕府ができた年は、守護・地頭を置いた1185年とする考えと、征夷大将軍になった1192年とする考えがあります。幕府のしくみは、少しずつ整えられていきました。
合言葉:「守護は国ごと、地頭は荘園ごと」。
まちがえやすい
✕ 守護は、荘園や公領ごとに置かれた → ◯ 国ごと(荘園や公領ごとは地頭)
標準「年貢の取り立て」「犯罪の取りしまり」は、守護と地頭のどちらの仕事ですか。それぞれ答えなさい。
上の表の「何をする」の行を見ます。御家人をまとめ、軍事・警察を行うのが守護です。
答え:年貢の取り立て=地頭、犯罪の取りしまり=守護
標準頼朝が兵を挙げたのは1180年、征夷大将軍になったのは1192年です。兵を挙げてから将軍になるまで、何年かかりましたか。
新しい年から古い年をひきます。
1192−1180=12(年)
答え:12年
将軍と御家人は、何で結びついていた? 御恩と奉公
📄 プリント3ページ
答え:将軍と御家人は、土地を仲立ちにした御恩と奉公で結ばれた主従関係でした。将軍が土地を守り、新しい土地をあたえるのが御恩、御家人が警備や戦いで働くのが奉公です。幕府ができても、朝廷は続きました。
頼朝のあと、将軍を助けて幕府を動かしたのは執権です。鎌倉の中央には、侍所・政所・問注所を置き、地方には守護と地頭を置きました。将軍と主従関係を結んだ武士を御家人といいます。
- 御恩:将軍が、御家人の先祖からの領地を認めて守り、手がらに応じて新しい領地をあたえる(地頭に任命する)こと
- 奉公:御家人が、京都や鎌倉の警備をし、戦いが起これば将軍のために命がけで戦うこと
理由:手がらを立てると、また御恩をもらえます。土地があたえられるから、御家人は命がけで戦うのです。
| 東日本 | 西日本 | |
|---|---|---|
| はじめのころの力 | 幕府の力が強い | 朝廷や貴族の力も強い |
合言葉:「御恩は土地、奉公は戦い」。
まちがえやすい
✕ 幕府ができて、朝廷はなくなった → ◯ 朝廷は続いた
標準次の4つを、御恩と奉公に分けなさい。 ① 領地を守る ② 京都や鎌倉の警備 ③ 手がらに応じて新しい領地をあたえる ④ 戦いで将軍のために働く
将軍がしてくれることが御恩、御家人がすることが奉公です。
答え:御恩=①と③、奉公=②と④
発展戦いで手がらを立てた御家人は、将軍から何をあたえられましたか。また、それは御恩と奉公のどちらにあたりますか。
御恩は将軍がしてくれること、奉公は御家人がすることです。
答え:新しい土地(領地)をあたえられた。これは御恩にあたる。
北条氏の執権政治と承久の乱、御成敗式目
📄 プリント4ページ
答え:頼朝が亡くなると、頼朝の妻北条政子の実家の北条氏が、執権として幕府を動かしました(執権政治)。1221年の承久の乱で後鳥羽上皇の軍を破った幕府は、西日本にも力を広げ、1232年に御成敗式目を定めました。
源氏の将軍は3代で絶えました。そのあと、北条氏が、将軍を助ける職の執権に代々ついて、幕府を動かしました。
- 1221年、後鳥羽上皇が、朝廷の力を取りもどそうと、幕府をたおすよう武士に呼びかけた
- 北条政子が、御家人に頼朝の御恩を説き、団結させた
- 幕府の大軍が京都に攻め上り、上皇の軍を破った。乱は短い間に終わった
- 上皇は隠岐に流された。幕府は、上皇側の貴族や武士の領地を取り上げ、その土地の地頭に東日本の御家人を任命した
乱のあと、京都には六波羅探題が置かれ、朝廷を見はり、西日本の御家人をまとめました。
御成敗式目:承久の乱のあと、西日本にも東日本の御家人が地頭として置かれ、荘園領主(貴族や寺社)と地頭の、土地や年貢をめぐる争いが増えました。争いを公平に裁判するための基準が要ったので、1232年、3代執権の北条泰時が定めました。武士の社会の慣習(習わし)にもとづいた、武士が定めた最初の法です。律令はなくならず、武士のための法を別に定めました。
まちがえやすい
✕ 承久の乱は、源氏と平氏の戦い → ◯ 後鳥羽上皇と、幕府の戦い
標準承久の乱は1221年、御成敗式目が定められたのは1232年です。承久の乱から御成敗式目まで、何年ありますか。
新しい年から古い年をひきます。
1232−1221=11(年)
答え:11年
基本京都に置かれた六波羅探題は、どのような役目をもっていましたか。
乱のあとの京都で、朝廷と、西日本の御家人に対してしたことを、本文から拾います。
答え:朝廷を見はり、西日本の御家人をまとめる
標準御成敗式目は、何にもとづいて、どのようなことを決めた法ですか。
「武士が定めた最初の法」という点から考えます。
答え:武士の社会の慣習(習わし)にもとづいて、御家人の領地などをめぐる争いを、公平に裁判するための基準を決めた
鎌倉時代の武士と農民のくらし:館・二毛作・定期市
📄 プリント5ページ
答え:武士は、ふだんは領地の館に住み、武芸にはげみました。領地は子どもたちに分ける分割相続でした。農業では二毛作が広まり、商業では定期市が開かれ、取り引きには宋銭が使われました。
武士のくらし:武士は、ふだんは領地の館に住んでいました。館は、まわりを堀や塀で囲んであります。農民を使って田畑を耕させ、馬に乗って弓を射るなどの武芸にはげみました。一族は、かしらを中心にまとまりました。分割相続とは、領地を、女性をふくむ子どもたちに分けて相続することです。
農民を支配したのはだれ?地頭は、荘園領主(貴族や寺社)と、土地や年貢をめぐって争うようになりました。農民は、荘園領主と地頭の両方から支配されました。
| 広まったこと | |
|---|---|
| 農業 | 二毛作=同じ田畑で、米と麦など、ちがう作物を1年に2回作る(西日本を中心に広まった)。牛や馬を使った耕作、鉄製の農具、草や木を焼いた灰の肥料 |
| 商業 | 定期市=寺社の門前や交通の便利な所で、月に決まった日に開く市。取り引きには、日宋貿易で入った宋銭が使われた |
合言葉:「田は二毛作、市は定期市、お金は宋銭」。
まちがえやすい
✕ 二毛作は、米を1年に2回作ること → ◯ 同じ田畑で、ちがう作物を1年に2回作ること
標準同じ田畑で、夏に米を作り、そのあと麦を作りました。これは二毛作といえますか。理由もそえて答えなさい。
二毛作の決まりは、「同じ田畑」「ちがう作物」「1年に2回」の3つです。
答え:いえる。同じ田畑で、ちがう作物(米と麦)を1年に2回作っているから。
基本武士の館は、まわりを何で囲んでありましたか。
館のつくりの説明を、本文から探します。
答え:堀や塀
鎌倉文化:武士の気風に合った文学と建物・彫刻
📄 プリント6ページ
答え:鎌倉文化は、公家(貴族)の伝統的な文化を受けつぎながら、武士の気風に合った素朴で力強い文化です。貴族だけでなく、武士や民衆も文化の担い手になりました。
源平の争乱で焼けた東大寺は、鎌倉時代の初めに、宋の様式を取り入れて再建されました。そのとき建てられたのが東大寺南大門です。門には、運慶・快慶らがつくった金剛力士像が置かれました。金剛力士像は、力強い姿の像で、武士の気風に合っています。
| 作品 | 人物 | 種類・説明 |
|---|---|---|
| 『平家物語』 | 琵琶法師が語り広めた | 軍記物。平氏の繁栄とほろびをえがく。文字の読めない人々にも親しまれた |
| 『新古今和歌集』 | 藤原定家ら | 後鳥羽上皇の命令でまとめられた和歌集 |
| 『方丈記』 | 鴨長明 | 随筆 |
| 『徒然草』 | 兼好法師 | 随筆 |
| 国風文化(平安時代) | 鎌倉文化 | |
|---|---|---|
| 担い手 | 貴族 | 公家に加え、武士や民衆 |
| 特色 | 日本の風土に合った優美な文化 | 素朴で力強い文化 |
| 代表 | 源氏物語・平等院鳳凰堂 | 平家物語・金剛力士像 |
まちがえやすい
✕ 『平家物語』は随筆 → ◯ 軍記物(随筆は『方丈記』と『徒然草』)
標準『平家物語』『新古今和歌集』『方丈記』『徒然草』を、軍記物・和歌集・随筆に分けなさい。
上の作品の表の「種類・説明」の列を見ます。
答え:軍記物=『平家物語』、和歌集=『新古今和歌集』、随筆=『方丈記』と『徒然草』
標準金剛力士像が「武士の気風に合っている」といわれるのは、どのような像だからですか。
像の姿の特ちょうを、本文から拾います。
答え:力強い姿の像だから
新しい仏教は、なぜ武士や民衆に広まった? 念仏・題目・座禅
📄 プリント7ページ
答え:鎌倉時代の新しい仏教は、念仏・題目・座禅の3つの教えに分けられます。念仏と題目は、わかりやすく、実行しやすい教えで、武士や民衆にも広まりました。座禅の禅宗は、自分の力で悟りを開く教えが、武士の気風に合いました。
| 教え | 宗派 | 開いた人 | 特色 |
|---|---|---|---|
| 念仏(「南無阿弥陀仏」と唱える) | 浄土宗 | 法然 | 念仏を唱えれば、だれでも極楽浄土に生まれ変われる |
| 浄土真宗(一向宗) | 親鸞(法然の弟子) | 法然の念仏の教えを受けついだ | |
| 時宗 | 一遍 | 踊りながら念仏を唱える(踊念仏) | |
| 題目(「南無妙法蓮華経」と唱える) | 日蓮宗(法華宗) | 日蓮 | 題目を唱える教え |
| 座禅(すわって心をしずめる) | 臨済宗 | 栄西 | 座禅によって、自分の力で悟りを開く。宋から伝えられた |
| 曹洞宗 | 道元 | 座禅の教えをまとめて禅宗という |
| それまでの仏教 | 鎌倉時代の新しい仏教 | |
|---|---|---|
| 奈良時代 | 国を守るための仏教(東大寺と大仏) | わかりやすく、実行しやすい教え。武士や民衆にも広まった |
| 平安時代 | 天台宗・真言宗や浄土信仰。おもに貴族が信仰した |
理由:禅宗は、座禅によって自分の力で悟りを開く教えで、武士の気風に合いました。臨済宗は、幕府に保護されました。
合言葉:「念仏は法然・親鸞・一遍、題目は日蓮、座禅は栄西・道元」。
まちがえやすい
✕ 浄土真宗を開いたのは法然 → ◯ 親鸞(法然が開いたのは浄土宗)
標準浄土宗・時宗・日蓮宗・臨済宗を、念仏・題目・座禅の3つの教えに分けなさい。
上の表の左の列(教え)と、宗派の列を見くらべます。
答え:念仏=浄土宗と時宗、題目=日蓮宗、座禅=臨済宗
基本「南無阿弥陀仏」と「南無妙法蓮華経」は、念仏と題目のどちらですか。それぞれ答えなさい。
表の左の列に、唱える言葉がそれぞれ書いてあります。
答え:「南無阿弥陀仏」=念仏、「南無妙法蓮華経」=題目
標準平安時代の仏教と鎌倉時代の新しい仏教は、信仰した人々のはばにどのようなちがいがありますか。
上の「それまでの仏教」の表の、平安時代の行と右の列を見くらべます。
答え:平安時代の仏教はおもに貴族が信仰したが、鎌倉時代の新しい仏教は武士や民衆にも広まった。
中世のユーラシア:イスラム世界の広がりと十字軍
📄 プリント8ページ
答え:キリスト教は西ヨーロッパに、イスラム教は西アジアから北アフリカ・中央アジアなどに広がり、イスラム教を信じる人々が治める地域をイスラム世界といいます。11世紀の終わりから、ローマ教皇の呼びかけで十字軍が聖地エルサレムへ遠征しましたが、取りもどせず失敗に終わりました。
← 横にずらすと続きが見えます →出典:地図:Natural Earth
| キリスト教の世界 | イスラム世界 | |
|---|---|---|
| 広がった所 | 西ヨーロッパ | 西アジアから、北アフリカ、イベリア半島(今のスペイン・ポルトガルのあたり)、中央アジア |
| 活やくした人 | ローマ教皇(キリスト教の教会のかしら)が、大きな力をもった | ムスリム(イスラム教徒)の商人が、陸の道(シルクロード)や海の道で交易した |
| 進んだ学問 | ― | 数学・天文学・医学。インドで生まれた数字をもとにしたアラビア数字が、のちにヨーロッパに伝わった |
十字軍:ローマ教皇の呼びかけで、西ヨーロッパの王や貴族が、聖地エルサレムをイスラム勢力から取りもどそうと行った遠征です。11世紀の終わりから約200年の間、何度も遠征しましたが、エルサレムを取りもどすことはできず、失敗に終わりました。一方で、東西の行き来がふえ、イスラム世界の進んだ学問や品物が、ヨーロッパに伝わりました。
まちがえやすい
✕ 十字軍は、エルサレムを取りもどして成功した → ◯ 失敗したが、東西のつながりが強まった
標準十字軍は、11世紀の終わりから約200年の間、行われました。11世紀の終わりを1100年ごろとすると、十字軍が終わったのは、何世紀の終わりごろですか。
1100年ごろに200年をたします。
1100+200=1300(年)
13世紀は1201〜1300年なので、1300年は14世紀ではなく13世紀の終わりです。
答え:13世紀の終わりごろ
基本アラビア数字のもとになった数字は、どこで生まれましたか。
表の「進んだ学問」の行に書いてあります。
答え:インド
モンゴル帝国は、ユーラシアをどう結びつけた?
📄 プリント9ページ
答え:13世紀の初めにチンギス・ハンがモンゴル高原の遊牧民をまとめ、孫のフビライ・ハンが国号を元とし、都を大都(今の北京)に移しました。モンゴル帝国のもとで、ユーラシアの陸の道や海の道が使われ、東西の交流がさかんになりました。
← 横にずらすと続きが見えます →出典:地図:Natural Earth
- 13世紀の初め、チンギス・ハンが、モンゴル高原の遊牧民をまとめる
- チンギス・ハンの子や孫の代に、東は中国の北部・朝鮮半島、西は西アジア・東ヨーロッパの一部まで広がる
- 孫のフビライ・ハンが、国号を元とし、都を大都に移す
- フビライは、中国の南に残っていた宋をほろぼして、中国全体を支配する。朝鮮半島の高麗も、元に従う
行き来したもの:ユーラシアの陸の道が整えられ、海の道も使われました。ムスリム商人など、多くの人が行き来し、イタリアの商人マルコ・ポーロは元をおとずれました。マルコ・ポーロは、旅行記で日本を「黄金の国ジパング」と紹介しました。元は、日本も従えようとしました。
合言葉:「チンギスがまとめ、フビライが元」。
まちがえやすい
✕ モンゴル帝国をつくったのはフビライ・ハン → ◯ チンギス・ハン(フビライは孫で、国号を元とした)
基本フビライ・ハンは、モンゴル帝国をつくった人物から見て、どのような関係にありますか。
本文の「チンギス・ハンの子や孫の代に」「孫のフビライ・ハン」から考えます。
答え:孫
標準チンギス・ハンの子や孫の代に、モンゴル帝国は東と西のどこまで広がりましたか。
広がりの説明を、東と西に分けて拾います。
答え:東は中国の北部・朝鮮半島、西は西アジア・東ヨーロッパの一部まで
元が攻めてきたとき、幕府と御家人はどう戦った? 文永の役と弘安の役
📄 プリント10ページ
答え:元と高麗の軍は、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の2度、日本に攻めてきました(元寇)。8代執権の北条時宗は元の要求を退け、幕府は博多湾の沿岸に防塁を築いて備えました。
| 文永の役 | 弘安の役 | |
|---|---|---|
| 年 | 1274年 | 1281年 |
| 攻めてきた軍 | 元と高麗の軍 | 元の、より大きな軍 |
| どこへ | 対馬・壱岐をおそったあと、博多湾に上陸 | 再び九州北部へ |
| 結果 | 御家人は苦しんだが、元軍は引きあげた | 上陸できず、暴風雨もあって大きな損害を受け、引きあげた |
防塁:幕府は、文永の役のあと、次の襲来に備えて、博多湾の沿岸に石の防壁を築きました。弘安の役では、防塁と御家人の抵抗で、元軍は博多の海岸に上陸できませんでした。
戦い方:元軍は集団で戦い、てつはうなど、火薬を使った武器を使いました。御家人は、一人ひとりが手がらを立てる戦い方に慣れていたので、慣れない戦い方に苦しみました。
合言葉:「1274 文永、防塁を築いて 1281 弘安」。
まちがえやすい
✕ 防塁は、文永の役の前に築かれた → ◯ 文永の役のあと、次の襲来に備えて築かれた
標準文永の役は1274年、弘安の役は1281年です。2度の襲来の間は、何年ですか。
新しい年から古い年をひきます。
1281−1274=7(年)
答え:7年
基本博多湾の沿岸に石の防壁がつくられたのは、いつ、何のためでしたか。
「防塁は、いつ築かれたか」は、まちがえやすい所にも書いてあります。
答え:文永の役のあと、次の襲来に備えるため
理由文永の役では元軍が引きあげましたが、弘安の役では、元軍が引きあげたとき、ようすがどうちがっていましたか。表をくらべて書きなさい。
表の「結果」の行を、左右でくらべます。
答え:文永の役では博多湾に上陸したが、弘安の役では上陸できず、暴風雨もあって大きな損害を受けて引きあげた。
元寇のあと、なぜ幕府はゆらぎはじめた? 徳政令
📄 プリント11ページ
答え:元寇は外国から守る戦いで、新しい土地が手に入らず、幕府は御家人に十分な恩賞をあたえられませんでした。御恩と奉公がうまく回らなくなり、1297年の徳政令も効果が一時的で、御家人の不満が高まりました。
- 元寇は外国から守る戦いだったので、新しい土地が手に入らなかった
- 幕府は、御家人に十分な恩賞(ほうび)をあたえられなかった。戦いの費用は、御家人が自分で出した
- 分割相続で領地が小さくなり、借金をして土地を手放す御家人が増えた
- 1297年、幕府は徳政令を出し、御家人が手放した土地を、ただで取りもどさせた
- 効果は一時的だった。そのあと、御家人にお金を貸す人が少なくなり、御家人はかえって苦しくなった
- 御家人の幕府への不満が高まった
御恩と奉公とくらべる:将軍(幕府)から御家人へ、御恩(土地)が足りないのに、御家人は奉公はしました。だから、不満が高まったのです。
北条氏に力が集まる:北条氏の一族は、多くの国の守護など、幕府の重要な役職につきました。北条氏に力が集まり、ほかの御家人の不満も高まりました。
合言葉:「元寇は守る戦い、だから恩賞の土地が無い」。
まちがえやすい
✕ 元寇に勝ったので、御家人は新しい領地をたくさんもらった → ◯ 守る戦いで新しい土地は得られず、恩賞は足りなかった
標準弘安の役は1281年、徳政令が出されたのは1297年です。弘安の役から徳政令まで、何年ありますか。
新しい年から古い年をひきます。
1297−1281=16(年)
答え:16年
理由徳政令のあと、御家人がかえって苦しくなったのはなぜですか。
徳政令で土地が取りもどせたあとの、お金の貸し借りに注目します。
答え:御家人にお金を貸す人が少なくなったから。
標準分割相続を続けると、御家人の領地はどうなりますか。
領地を子どもたちに分けることをくり返すと、1人あたりの土地はどうなるかを考えます。
答え:領地が小さくなる
武士はなぜ政権を打ち立てることができた? 流れのまとめと年表
📄 プリント12ページ
答え:武士は、土地を仲立ちにした御恩と奉公で御家人をまとめ、源頼朝のもとで鎌倉幕府を開きました。守護と地頭を置き、承久の乱に勝って西日本にも力を広げ、御成敗式目で武士の裁判の基準を定めました。こうして武士が政治を動かす社会になりましたが、元寇のあと恩賞が足りず、御家人の不満が高まりました。
- 武士が力をつける(反乱をしずめる・平清盛)
- 源頼朝が鎌倉幕府を開く(守護・地頭・征夷大将軍)
- 御恩と奉公で御家人をまとめる
- 承久の乱で、西日本にも力が広がる
- 御成敗式目で、武士の裁判の基準を定める
- 元寇のあと、御恩と奉公がうまく回らず、幕府がゆらぐ
同じころ、武士や民衆にも、新しい文化と仏教が広まりました。世界では、十字軍とモンゴル帝国がありました。
| 年 | できごと | 年 | できごと |
|---|---|---|---|
| 11世紀の終わり | 十字軍が始まる | 1221年 | 承久の乱 |
| 1180年 | 源頼朝が兵を挙げる | 1232年 | 御成敗式目 |
| 1185年 | 壇ノ浦の戦い・守護と地頭を置く | 1274年 | 文永の役 |
| 1192年 | 源頼朝が征夷大将軍になる | 1281年 | 弘安の役 |
| 13世紀の初め | モンゴル帝国ができる | 1297年 | 永仁の徳政令 |
まちがえやすい
✕ 元寇は、承久の乱より前のできごと → ◯ 承久の乱(1221年)のあと、元寇(1274年・1281年)
標準頼朝が兵を挙げた1180年から、弘安の役(1281年)まで、何年ありますか。
新しい年から古い年をひきます。
1281−1180=101(年)
答え:101年
標準年表のうち、十字軍が始まった時期と、承久の乱は、どちらが先ですか。理由もそえて答えなさい。
十字軍は11世紀の終わり(1100年ごろ)、承久の乱は1221年です。世紀の数が小さいほど、前の時代です。
答え:十字軍が始まったほうが先。11世紀の終わり(1100年ごろ)が、1221年より前だから。
✅ 一問一答で総チェック(20問)
問題を読んで、答えを頭の中で言ってからタップしましょう。答えが出ます。
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1180年に伊豆で兵を挙げ、鎌倉を拠点にした人物はだれですか。
答え:源頼朝
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1185年に平氏がほろびた戦いを何といいますか。
答え:壇ノ浦の戦い
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国ごとに置かれ、軍事・警察を行った役職を何といいますか。
答え:守護
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荘園や公領ごとに置かれ、年貢の取り立てを行った役職を何といいますか。
答え:地頭
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1192年に頼朝が朝廷から任命された地位は何ですか。
答え:征夷大将軍
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将軍と主従関係を結んだ武士を何といいますか。
答え:御家人
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将軍が土地をあたえ、御家人が戦いで働くという、土地を仲立ちにした関係を何といいますか。
答え:御恩と奉公
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頼朝のあと、将軍を助けて幕府を動かした職を何といいますか。
答え:執権
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1221年に後鳥羽上皇が幕府をたおそうとして起こした戦いを何といいますか。
答え:承久の乱
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承久の乱のあと、京都に置かれて朝廷を見はった役所を何といいますか。
答え:六波羅探題
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1232年に北条泰時が定めた、武士の裁判の基準となる法を何といいますか。
答え:御成敗式目
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同じ田畑で、米と麦など、ちがう作物を1年に2回作る農法を何といいますか。
答え:二毛作
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武士が領地を、女性をふくむ子どもたちに分けて相続することを何といいますか。
答え:分割相続
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運慶・快慶らがつくり、東大寺南大門に置かれた像を何といいますか。
答え:金剛力士像
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浄土宗を開いた人物はだれですか。
答え:法然
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題目を唱える教えを広め、法華宗ともよばれる宗派を開いた人物はだれですか。
答え:日蓮
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ローマ教皇の呼びかけで、聖地エルサレムを取りもどそうと行われた遠征を何といいますか。
答え:十字軍
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モンゴル高原の遊牧民をまとめ、モンゴル帝国をつくった人物はだれですか。
答え:チンギス・ハン
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1274年と1281年の2度、元と高麗の軍が日本に攻めてきたできごとを何といいますか。
答え:元寇
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1297年に幕府が出した、御家人が手放した土地をただで取りもどさせる法令を何といいますか。
答え:徳政令
まとめ
源頼朝は、1185年に平氏をほろぼして守護・地頭を置き、1192年に征夷大将軍になって鎌倉幕府を開きました。将軍と御家人は、土地を仲立ちにした御恩と奉公で結びつき、頼朝のあとは北条氏が執権として幕府を動かしました。1221年の承久の乱に勝って西日本にも力を広げ、1232年の御成敗式目で武士の裁判の基準を定めました。1274年と1281年の元寇のあとは、恩賞が足りず、1297年の徳政令でも御家人の不満は解けず、幕府はゆらぎはじめます。プリントの確認問題で、年号と人物の組み合わせを手を動かして確かめてみてください。

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