⏱ 30秒でわかる この単元の要点
- 794年に桓武天皇が都を平安京(京都)に移し、約400年の平安時代が始まった。奈良の寺院の力からはなれ、政治を立て直そうとした
- 最澄は天台宗で比叡山の延暦寺、空海は真言宗で高野山の金剛峯寺。山奥の寺で修行し、国家や貴族のためにいのった
- 藤原氏は娘を天皇のきさきにし、母方の祖父として力をふるった。幼い天皇には摂政、成人した天皇には関白(摂関政治)。地方の有力者が寄進した荘園の収入も力を支えた
- 894年に菅原道真の提案で遣唐使の停止が決まり、唐の文化をもとに国風文化が生まれた。かな文字、源氏物語(紫式部)、枕草子(清少納言)、浄土信仰と平等院鳳凰堂
- 武士が成長し、1086年に白河上皇が院政を始めた。保元の乱・平治の乱で武士の力が政治を動かし、平清盛が1167年に太政大臣になって日宋貿易で富を得た
つまずき注意:摂政は幼い天皇に代わる職、関白は成人した天皇を助ける職です。藤原道長は摂政になりましたが、関白になったのは子の頼通です。最澄は比叡山、空海は高野山で、逆にしないようにしましょう。
中1社会(歴史)の「平安時代」を、地図・表・年表と例題で1つずつ確かめるページです。藤原氏が政治の実権をにぎったしくみ、摂政と関白のちがい、国風文化、武士の成長や平清盛の政治を通して、「政治を動かす人は、なぜ天皇から藤原氏、上皇、武士へと移り変わった?」という問いに答えます。どの見出しも「答え → 図 → 理由 → 解き方」の順に書いています。紙に書いて練習したい人は、下の無料プリントを使ってください。
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説明 1〜12ページ/確認問題 13〜15ページ/覚えることの一覧 16ページ/答えと解説 17・18ページ。この記事の見出しごとに、対応するページを書いています。
平安時代の約400年で、政治を動かす人はどう変わった?
📄 プリント1ページ
答え:794年に都が京都の平安京に移ってから、鎌倉に幕府ができるまでの約400年間を平安時代といいます。この間に、政治を動かす人は、天皇 → 藤原氏 → 上皇 → 武士と移り変わりました。
| 奈良時代(710年から約80年) | 平安時代(794年から約400年) | 次の時代 |
|---|---|---|
| 都は平城京。仏教の文化が栄えた | 都は平安京。政治を動かす人が移り変わった | 鎌倉に幕府ができる |
理由(この記事で学ぶ5つ):
- 桓武天皇の政治と新しい仏教(2・3ページ)
- 摂関政治と荘園(4・5ページ)
- 国風文化と浄土信仰(6・7ページ)
- 武士の成長(8・9ページ)
- 院政と平氏の政治(10・11ページ)
まちがえやすい
✕ 平安時代は、都が平城京にあった時代 → ◯ 都が京都の平安京に移ってからの時代(平城京は奈良時代)
基本平安時代は、およそ何年間続きましたか。
794年に平安京に都が移ってから、鎌倉に幕府ができるまでの間です。
答え:約400年間
標準平安時代に政治を動かした人を、移り変わった順に並べなさい。ア 上皇 イ 武士 ウ 藤原氏 エ 天皇
はじめは天皇が立て直しを進め、次に藤原氏、そのあと上皇、最後に武士です。
答え:エ → ウ → ア → イ
桓武天皇は、なぜ都を平安京に移した?
📄 プリント2ページ
答え:奈良の寺院(仏教の勢力)が政治に大きな力をもち、律令にもとづく政治がゆるんだからです。桓武天皇は、784年に長岡京、794年に平安京へと都を移し、政治を立て直そうとしました。
| 平城京 | 平安京 | |
|---|---|---|
| 年 | 710年 | 794年 |
| 場所 | 奈良(奈良県) | 京都(京都府) |
| 手本 | どちらも唐の都・長安(道路が碁盤の目のよう) | |
理由(東北地方への大軍):東北地方には、朝廷の支配に従わなかった蝦夷(えみし)とよばれる人々がいました。桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、東北地方に大軍を送りました。蝦夷の指導者アテルイは降伏し、朝廷の支配は東北地方に広がりました。
ここでの征夷大将軍は、蝦夷を従わせるための軍の総大将のことです。のちの「武士のかしら」という意味とはちがいます。
| 桓武天皇がしたこと | ねらい |
|---|---|
| 都を移す | 寺院の勢力からはなれて、政治を立て直す |
| 国司(地方の役人)の監督を強める | 地方の政治を立て直す |
| 東北地方に大軍を送る | 支配を東北地方に広げる |
まちがえやすい
✕ 平安京は、今の奈良につくられた → ◯ 京都につくられた(奈良は平城京)
基本桓武天皇が、平安京の前の784年に都を移した場所は、どこですか。
地図で、平城京と平安京の間にある都を見ます。
答え:長岡京
標準次の文のうち、正しいものはどちらですか。ア 坂上田村麻呂は、蝦夷を従わせるための軍の総大将として、征夷大将軍に任命された。 イ 坂上田村麻呂は、のちの武士のかしらとして、征夷大将軍に任命された。
平安時代のはじめの征夷大将軍は、蝦夷を従わせる軍の総大将のことです。
答え:ア
理由桓武天皇が都を平安京に移したのはなぜですか。「寺院」「立て直す」という語を使って説明しなさい。
政治に力をもった寺院から、はなれることがねらいです。
答え:奈良の寺院が政治に大きな力をもち、律令の政治がゆるんだので、寺院の勢力からはなれて政治を立て直すため。
最澄と空海の仏教は、奈良時代の仏教とどうちがう?
📄 プリント3ページ
答え:遣唐使とともに唐にわたった最澄と空海は、帰国して新しい宗派を開き、山奥の寺で修行しました。国家や貴族のためにいのり(祈とう)を行い、貴族の信仰を集めました。
| 人 | 宗派 | 山 | 寺 | 山のある所 |
|---|---|---|---|---|
| 最澄 | 天台宗 | 比叡山 | 延暦寺 | 滋賀県と京都府の境 |
| 空海 | 真言宗 | 高野山 | 金剛峯寺 | 和歌山県 |
理由(奈良時代の仏教とのくらべ):延暦寺も金剛峯寺も、都の中ではなく、山の中の寺です。
| 奈良時代の仏教 | 最澄・空海の仏教 | |
|---|---|---|
| 寺のある所 | 都(平城京)の大きな寺や、国ごとの国分寺 | 山奥 |
| 天皇や朝廷との関わり | 聖武天皇が国を守るために東大寺や国分寺を建てた。やがて寺院が政治に力をもった | 国家や貴族のためにいのり、貴族の信仰を集めた |
政治からはなれた山奥で、唐で学んだ新しい仏教が広まりました。
まちがえやすい
✕ 最澄は高野山、空海は比叡山で教えを広めた → ◯ 逆。最澄は比叡山、空海は高野山
基本空海が開いた宗派と、修行の場にした山を答えなさい。
表の空海の行を見ます。
答え:真言宗、高野山
標準次の組み合わせのうち、正しいものを選びなさい。ア 最澄-天台宗-延暦寺 イ 空海-天台宗-金剛峯寺 ウ 最澄-真言宗-延暦寺
最澄は天台宗で延暦寺、空海は真言宗で金剛峯寺です。
答え:ア
理由最澄と空海の仏教は、寺のある場所とその役割で、奈良時代の仏教とどうちがいますか。
表の「寺のある所」と「天皇や朝廷との関わり」を読み比べます。
答え:奈良時代は都の大きな寺で仏教が栄えたが、最澄と空海は山奥の寺で修行し、国家や貴族のためにいのりを行った。
藤原氏は、どうやって政治の実権をにぎった? 摂政と関白のちがいは?
📄 プリント4ページ
答え:藤原氏は、娘を天皇のきさきにし、生まれた子を次の天皇に立てて、天皇の母方の祖父として力をふるいました。天皇が幼いときは摂政、成人してからは関白として政治の実権をにぎりました。この政治を摂関政治といいます。
理由(摂政と関白のちがい):藤原氏は、中臣鎌足の子孫で、9世紀から10世紀にかけて力をのばしました。摂政と関白は、政治の実権をにぎる時期と、することがちがいます。
| 摂政 | 関白 | |
|---|---|---|
| いつ | 天皇が幼いとき | 天皇が成人したあと |
| すること | 天皇に代わって政治を行う | 天皇を助けて政治を行う |
摂政は聖徳太子のころにもありましたが、そのときの摂政と、藤原氏の摂関政治はこうちがいます。
| 聖徳太子 | 藤原氏 | |
|---|---|---|
| だれが | 皇族 | 貴族 |
| 天皇との関係 | おばの推古天皇を助けた | 天皇の母方の祖父 |
| つく職 | 摂政 | 摂政・関白 |
藤原道長と望月の歌:11世紀前半、藤原道長とその子藤原頼通のころ、摂関政治は最も栄えました。道長は摂政になりましたが、関白にはなっていません(関白になったのは子の頼通です)。道長は、次の歌をよみました。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
意味は、「この世は自分のためにあるようなものだ。満月が欠けていないように、自分の思いどおりにならないことは何もないのだから」です(やさしく書きかえています)。天皇の母方の祖父の藤原氏が、摂政・関白として政治を動かしました。
まちがえやすい
✕ 摂関政治では、藤原氏が天皇になった → ◯ 天皇の母方の祖父として、摂政・関白になった
✕ 摂政は、成人した天皇を助ける職 → ◯ それは関白。摂政は幼い天皇に代わる
基本天皇が成人したあとに、天皇を助けて政治を行う職を何といいますか。
表の「いつ」の行で、成人したあとはどちらかを見ます。
答え:関白
標準藤原道長について、正しい文を選びなさい。ア 摂政になったが、関白にはなっていない。 イ 関白になったが、摂政にはなっていない。 ウ 天皇になって政治を行った。
関白になったのは、道長の子の頼通です。天皇になった藤原氏もいません。
答え:ア
理由藤原氏が天皇にならずに政治の実権をにぎることができたのは、どのようなしくみがあったからですか。「きさき」「母方の祖父」を使って説明しなさい。
図の順に、娘 → 生まれた子 → 祖父の立場とたどります。
答え:娘を天皇のきさきにし、生まれた子を次の天皇に立てて、天皇の母方の祖父として摂政・関白になったから。
10世紀、土地と地方の政治はどう変わった?
📄 プリント5ページ
答え:朝廷が地方の政治を国司にまかせきりにして、地方の政治は乱れました。地方の有力者は自分の土地を守るため、都の貴族や寺社に土地を寄進し、その土地は荘園になりました。荘園は藤原氏などに集まり、その収入が藤原氏の力を支えました。
理由(寄進と荘園):奈良時代の墾田永年私財法で、貴族・寺社・豪族の私有地(のちの荘園)が生まれ、公地公民がくずれ始めていました。10世紀ごろには、次のように変わりました。
- 朝廷は、地方の政治を国司にまかせきりにするようになった
- 税を重く取り立てて自分の財産を増やす国司も現れ、地方の政治は乱れた
- 地方の有力者は、自分が開いた土地を守るため、都の有力な貴族や寺社に土地を寄進した
- 寄進された土地(荘園)は、税を納めなくてよいなどの特権をもった
- 藤原氏などに多くの荘園が集まり、その収入が藤原氏の力を支えた
地方の有力者が、自分が開いた土地を寄進する(差し出す)と、その土地は都の貴族や寺社(藤原氏など)のものになり、税を納めなくてよい荘園になります。
| 律令のはじめ | 10世紀 | |
|---|---|---|
| 土地 | 国のもの(公地公民) | 貴族や寺社の荘園が広がる |
| 地方の政治 | 国司が律令にもとづいて治める | 国司にまかせきりで乱れる |
| 政治の中心 | 天皇と太政官 | 藤原氏が摂政・関白として政治を動かす |
荘園の収入が藤原氏の力を支え、公地公民のしくみはさらにくずれました。
まちがえやすい
✕ 荘園は、国が人々にあたえた土地 → ◯ それは口分田。荘園は貴族や寺社の私有地
基本地方の有力者が、土地を守るために、貴族や寺社に土地を差し出すことを何といいますか。
差し出された土地は荘園になります。
答え:寄進
標準荘園について、正しい文を選びなさい。ア 国が人々にあたえた土地で、税を納める。 イ 貴族や寺社の私有地で、税を納めなくてよいなどの特権をもった。
国が人々にあたえた土地は口分田です。
答え:イ
理由藤原氏に荘園が集まったことは、藤原氏の力にとってどのような意味がありましたか。「収入」という語を使って説明しなさい。
荘園は、税を納めなくてよいなどの特権をもった土地です。その収入がどうなったかを考えます。
答え:荘園の収入が、藤原氏の力を支えた。
日本らしい文化は、なぜ生まれた?
📄 プリント6ページ
答え:894年に遣唐使の停止が決まったあと、唐の文化をもとにしながら、日本の風土や生活に合わせた国風文化が生まれました。漢字をもとに、日本語の発音を表すかな文字もつくられました。
理由(東アジアの変化):
- 唐がおとろえ、894年、菅原道真の提案で遣唐使の停止が決まった(唐が乱れた・海をわたるのが危険)
- 907年に唐がほろび、10世紀後半に宋が中国を統一した。10世紀には高麗が朝鮮半島を統一した
- 宋や高麗と正式な国交は結ばなかったが、商人の行き来で品物や書物は入ってきた
かな文字は、漢字をもとに、日本語の発音を表すためにつくられました。ただし、公式の文書は、それまでどおり漢字(漢文)で書かれました。
| できかた | 例 | |
|---|---|---|
| 平仮名 | 漢字をくずして | 安→あ・以→い・宇→う |
| 片仮名 | 漢字の一部を取って | 阿→ア・伊→イ・宇→ウ |
| 天平文化 | 国風文化 | |
|---|---|---|
| 特色 | 唐の影響を強く受けた、国際色豊かな仏教文化 | 唐の文化をもとに、日本の風土や生活に合わせた文化 |
| 文字 | 漢字(万葉仮名。『万葉集』) | かな文字(『古今和歌集』など) |
まちがえやすい
✕ 国風文化は、唐の文化と関係なく生まれた → ◯ 唐の文化をもとにした
基本漢字の一部を取ってつくられた、かな文字を何といいますか。
阿→ア、伊→イのように、漢字の一部を取ります。
答え:片仮名
標準894年に遣唐使の停止を提案した人物はだれですか。
894年の遣唐使の停止は、年表と図に出てくるできごとです。
答え:菅原道真
理由国風文化は、どのような文化ですか。「唐」「風土」という語を使って説明しなさい。
天平文化とくらべた表の「特色」の行を使います。
答え:唐の文化をもとにしながら、日本の風土や生活に合わせた文化。
国風文化では、どんな作品と信仰が生まれた?
📄 プリント7ページ
答え:かな文字で、『古今和歌集』『源氏物語』『枕草子』などの作品が生まれました。貴族の住まいは寝殿造、絵は大和絵でした。社会の不安が高まると、念仏を唱えて極楽浄土への生まれ変わりを願う浄土信仰が広まり、平等院鳳凰堂が建てられました。
理由(文学・住まい・絵):かな文字で、日本人の感情を自由に書き表せるようになり、とくに宮廷に仕える女性たちが、すぐれた作品を書きました。天皇のきさきのまわりには、教養や才能のある女性が仕え、紫式部や清少納言もきさきに仕えました。
| 作品 | 作者 | 種類 |
|---|---|---|
| 『古今和歌集』 | 紀貫之ら | 天皇の命令でまとめられた、かな文字の和歌集 |
| 『源氏物語』 | 紫式部 | 長編の物語 |
| 『枕草子』 | 清少納言 | 随筆 |
貴族の住まいは、広い庭と池があり、建物を廊下でつないだ寝殿造です。絵は、日本の風景や人々のようすをえがいた大和絵です。
理由(浄土信仰と平等院鳳凰堂):浄土信仰は、念仏を唱え、阿弥陀仏にすがって、死後に極楽浄土へ生まれ変わることを願う信仰です。10世紀の中ごろ、空也が都で念仏を広めました。11世紀には貴族の間にも広まり、阿弥陀堂がつくられました。藤原頼通が京都の宇治に建てた平等院鳳凰堂は、その代表です(10円硬貨にもえがかれています)。
| 最澄・空海の仏教 | 浄土信仰 | |
|---|---|---|
| 何をする | 山奥の寺で修行し、国家や貴族のためにいのる | 念仏を唱え、阿弥陀仏にすがる |
まちがえやすい
✕ 『源氏物語』は清少納言、『枕草子』は紫式部が書いた → ◯ 逆。源氏物語は紫式部、枕草子は清少納言
基本随筆『枕草子』を書いた人はだれですか。
表の「種類」が随筆の行を見ます。
答え:清少納言
標準京都の宇治に平等院鳳凰堂を建てた人物はだれですか。
摂関政治が最も栄えた道長の子です。
答え:藤原頼通
理由浄土信仰とは、どのような信仰ですか。「念仏」「極楽浄土」という語を使って説明しなさい。
何を唱え、何にすがり、死後にどうなることを願うかをたどります。
答え:念仏を唱え、阿弥陀仏にすがって、死後に極楽浄土へ生まれ変わることを願う信仰。
武士は、どのようにして力を認められた? 源氏と平氏はどこで勢力を広げた?
📄 プリント8・9ページ
答え:10世紀ごろ、武芸を専門とする武士が現れ、武士団をつくりました。10世紀中ごろの関東の平将門の乱や瀬戸内海の藤原純友の乱を、朝廷が武士の力でしずめたことで、武士の力が認められました。天皇の子孫の源氏は東日本、平氏は西日本に勢力を広げました。
理由(武士の登場):地方の政治が乱れ、人々は自分の土地を守る必要が高まりました。そのころ、弓矢や乗馬などの武芸を専門とする人々が力をつけ、一族や家来を率いて武士団をつくりました。
| 武士の役目 | |
|---|---|
| 都で | 天皇の住まいや貴族の屋敷を警備する |
| 地方で | 国司の下で治安を守る。自分たちの土地を守る |
| 反乱 | いつ | どこ |
|---|---|---|
| 平将門の乱 | 10世紀中ごろ | 関東地方 |
| 藤原純友の乱 | 10世紀中ごろ | 瀬戸内海 |
朝廷は、これらの反乱を自分の力ではしずめられず、武士の力でしずめました。こうして武士の力が認められていきました。
源氏と平氏:源氏と平氏は天皇の子孫で、武士団のかしら(棟梁)として力をもちました。
| 勢力を広げた所 | しずめた戦い | |
|---|---|---|
| 源氏 | 東日本 | 東北地方の大きな戦い(前九年合戦・後三年合戦。11世紀後半) |
| 平氏 | 西日本 | 瀬戸内海の海賊 |
東北地方では、奥州藤原氏が平泉(岩手県)を拠点に力をもち、中尊寺金色堂を建てました。
まちがえやすい
✕ 武士の力で、朝廷を倒した → ◯ 朝廷の反乱をしずめる側として、力を認められた
✕ 源氏と平氏は、もとは地方の農民だった → ◯ 天皇の子孫
基本10世紀中ごろ、瀬戸内海で反乱を起こした人はだれですか。
表で、場所が瀬戸内海の行を見ます。
答え:藤原純友
標準源氏と平氏が勢力を広げた地域の組み合わせとして、正しいものを選びなさい。ア 源氏-東日本、平氏-西日本 イ 源氏-西日本、平氏-東日本
源氏は東北地方の戦いをしずめ、平氏は瀬戸内海の海賊をしずめました。
答え:ア
理由朝廷が地方の反乱を武士の力でしずめたことは、武士にとってどのような意味がありましたか。
朝廷が自分の力ではしずめられなかったことに注目します。
答え:武士の力が認められていった。
院政の中で、武士はどうやって政治を動かすようになった?
📄 プリント10ページ
答え:1086年、白河天皇が位をゆずって上皇となり、院政を始めました。1156年の保元の乱、1159年の平治の乱では、武士の力で勝敗が決まり、武士の力が政治を動かすようになりました。
理由(院政):藤原氏と血のつながりのうすい天皇が現れ、藤原氏の力がおとろえてきました。院政とは、天皇の位をゆずった上皇が、院で政治の実権をにぎり続ける政治です。上皇やその住まいを「院」とよびました。
| 摂関政治 | 院政 | |
|---|---|---|
| だれが | 藤原氏 | 天皇の位をゆずった上皇 |
| どんな立場で | 天皇の母方の祖父として、摂政・関白の職について | 上皇として、院で |
| 荘園が集まった所 | 藤原氏 | 上皇にも多く集まった |
武士が政治を動かすまで:
- 1156年、保元の乱。天皇と上皇の争いに、藤原氏の争いも結びついた。源氏も平氏も、一族が両方に分かれて戦い、武士の力で勝敗が決まった
- 1159年、平治の乱。平清盛が源義朝を破った
- 武士の力が、政治を動かすようになった
まちがえやすい
✕ 保元の乱は、源氏と平氏が戦った → ◯ 天皇と上皇の争いで、源氏も平氏も一族が両方に分かれた
基本1086年に位をゆずって上皇となり、院政を始めた天皇はだれですか。
1086年は、院政が始まった年です。
答え:白河天皇(白河上皇)
標準次のできごとを、年代の古い順に並べなさい。ア 平治の乱 イ 院政が始まる ウ 保元の乱
イは1086年、ウは1156年、アは1159年です。
答え:イ → ウ → ア
理由摂関政治と院政で、政治の実権をにぎった人はどうちがいますか。
表の「だれが」の行を読み比べます。
答え:摂関政治は藤原氏が摂政・関白として、院政は天皇の位をゆずった上皇が院で、政治の実権をにぎった。
平清盛は、どのようにして力をもった?
📄 プリント11ページ
答え:平清盛は、平治の乱に勝ち、1167年に武士として初めて太政大臣になりました。藤原氏と同じように、娘を天皇のきさきにして、生まれた子を天皇に立て、荘園と日宋貿易で富を得ました。
理由(平清盛が力をもつまで):
- 平治の乱に勝つ
- 1167年、武士として初めて太政大臣(朝廷の最高の職)になった
- 娘を天皇のきさきにし、生まれた子を天皇に立てた
- 一族が朝廷の高い地位につき、多くの荘園をもった
| 藤原氏 | 平清盛 | |
|---|---|---|
| どんな家 | 貴族(中臣鎌足の子孫) | 武士(平氏の棟梁) |
| ついた職 | 摂政・関白 | 太政大臣 |
| 天皇との関係 | どちらも、娘を天皇のきさきにし、生まれた子を天皇に立てた | |
| 富のもと | 荘園 | 荘園と日宋貿易 |
日宋貿易:宋との貿易です。平清盛は、兵庫の港(大輪田泊)や瀬戸内海の航路を整えました。宋の銅銭(宋銭)や絹織物などを輸入し、大きな利益を得ました。平氏の政治に、貴族や寺社、各地の武士の不満が高まっていきました(次の鎌倉時代へつながります)。
まちがえやすい
✕ 日宋貿易で、日本は宋に銅銭を輸出した → ◯ 宋銭を輸入した
基本平清盛が整えた、日宋貿易の港はどこですか。
兵庫県にある港です。
答え:大輪田泊
標準平清盛が、武士として初めてついた朝廷の最高の職を答えなさい。
藤原氏がついた摂政・関白とはちがう職です。
答え:太政大臣
理由平清盛が朝廷の中で力をもったやり方は、藤原氏とどこが同じですか。
天皇との関係の行を見ます。
答え:娘を天皇のきさきにし、生まれた子を天皇に立てた点。
平安時代、政治を動かす人は、なぜ移り変わった?
📄 プリント12ページ
答え:桓武天皇は、都を平安京に移して政治を立て直そうとしました。やがて藤原氏が、娘を天皇のきさきにして摂政・関白となり、荘園の収入を力にしました。藤原氏の力がおとろえると、上皇が院政を始めました。上皇や貴族の争いを武士の力が決めるようになり、平清盛が太政大臣となって政治の実権をにぎりました。その間に、遣唐使の停止の後、唐の文化をもとにした国風文化が生まれました。
理由(6つのできごとをくらべる):
| できごと | 政治を動かした人 | どうやって力をもった | 変わったこと |
|---|---|---|---|
| 桓武天皇の政治 | 天皇 | 都を移し、国司の監督を強め、東北地方に大軍を送った。唐で学んだ最澄・空海の仏教が広まった | 寺院の勢力からはなれ、律令の政治を立て直そうとした |
| 摂関政治と荘園 | 藤原氏 | 娘を天皇のきさきにし、天皇の母方の祖父として摂政・関白に。荘園の収入が力を支えた | 公地公民がさらにくずれた |
| 国風文化と浄土信仰 | (摂関政治のころ) | 遣唐使の停止の後、唐の文化をもとにした文化が生まれた | かな文字の文学と浄土信仰 |
| 武士の成長 | (武士の登場) | 地方の反乱を武士の力でしずめた | 武士の力が認められた |
| 院政と保元・平治の乱 | 上皇 | 天皇の位をゆずった後も、院で政治の実権をにぎり続けた。荘園が上皇にも集まった | 争いの勝ち負けを武士の力が決めた |
| 平清盛の政治 | 平清盛 | 太政大臣になり、娘を天皇のきさきに。荘園と日宋貿易で富を得た | 武士が政治の実権をにぎった |
| 年 | できごと | 年 | できごと |
|---|---|---|---|
| 784年 | 長岡京に都を移す(桓武天皇) | 11世紀前半 | 藤原道長・頼通のころ(摂関政治が最も栄える) |
| 794年 | 平安京に都を移す | 1086年 | 院政が始まる(白河上皇) |
| 894年 | 遣唐使の停止(菅原道真) | 1156年 | 保元の乱 |
| 907年 | 唐がほろぶ | 1159年 | 平治の乱 |
| 10世紀中ごろ | 平将門の乱・藤原純友の乱 | 1167年 | 平清盛が太政大臣になる |
答えを書くときのコツ:表を上から順に読み、「だれが政治を動かしたか」を並べます。そのあとで、「なぜ移ったか」を、荘園や武士の力と結びつけて書き、できごとの順に「だから政治を動かす人が移り変わった」とむすびます。
まちがえやすい
✕ 平安時代は、ずっと藤原氏が政治を動かした → ◯ 天皇の立て直し → 藤原氏 → 上皇 → 武士と移り変わった
基本年表で、894年に決まったことは何ですか。
年表の894年の行を見ます。
答え:遣唐使の停止
標準次のできごとを、年代の古い順に並べなさい。ア 平清盛が太政大臣になる イ 院政が始まる ウ 藤原道長・頼通のころ エ 桓武天皇が平安京に都を移す
エは794年、ウは11世紀前半、イは1086年、アは1167年です。
答え:エ → ウ → イ → ア
理由政治を動かす人が、藤原氏から上皇に移ったのはなぜですか。
10ページの院政の説明の、はじめの1文を使います。
答え:藤原氏と血のつながりのうすい天皇が現れ、藤原氏の力がおとろえたから。
✅ 一問一答で総チェック(20問)
問題を読んで、答えを頭の中で言ってからタップしましょう。答えが出ます。
-
794年に桓武天皇が都を移した先は?
答え:平安京
-
784年に桓武天皇が、平安京の前に都を移した場所は?
答え:長岡京
-
東北地方で、朝廷の支配に従わなかった人々は?
答え:蝦夷
-
桓武天皇が、蝦夷を従わせるために大軍を率いさせた人物は?
答え:坂上田村麻呂
-
比叡山の延暦寺で教えを広め、天台宗を開いた人は?
答え:最澄
-
高野山の金剛峯寺で教えを広め、真言宗を開いた人は?
答え:空海
-
天皇が幼いときに、天皇に代わって政治を行う職は?
答え:摂政
-
天皇が成人したあとに、天皇を助けて政治を行う職は?
答え:関白
-
藤原氏が、摂政や関白として政治の実権をにぎった政治は?
答え:摂関政治
-
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の」の歌をよんだ人物は?
答え:藤原道長
-
地方の有力者が、土地を守るために貴族や寺社に土地を差し出すことは?
答え:寄進
-
寄進された、税を納めなくてよいなどの特権をもった私有地は?
答え:荘園
-
894年に遣唐使の停止を提案した人物は?
答え:菅原道真
-
唐の文化をもとに、日本の風土や生活に合わせて生まれた文化は?
答え:国風文化
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『源氏物語』の作者は?
答え:紫式部
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念仏を唱えて、死後に極楽浄土へ生まれ変わることを願う信仰は?
答え:浄土信仰
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藤原頼通が京都の宇治に建てた、浄土信仰の代表的な建物は?
答え:平等院鳳凰堂
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1086年に位をゆずって上皇となり、始めた政治は?
答え:院政
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1159年の平治の乱で、平清盛が破った人物は?
答え:源義朝
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平清盛が、宋の銅銭や絹織物を輸入した貿易は?
答え:日宋貿易
まとめ
794年に桓武天皇が都を平安京に移し、約400年の平安時代が始まりました。奈良の寺院の力からはなれて政治を立て直そうとし、最澄と空海の新しい仏教が広まりました。やがて藤原氏が、娘を天皇のきさきにし、天皇が幼いときは摂政、成人してからは関白となって政治の実権をにぎり、荘園の収入がその力を支えました。894年の遣唐使の停止の後には、唐の文化をもとにした国風文化が生まれ、かな文字の文学や浄土信仰が広まりました。地方では武士が成長し、1086年に院政が始まると、保元の乱・平治の乱を経て、平清盛が太政大臣となって政治の実権をにぎりました。プリントの確認問題で、年表や表を見ながら手を動かして練習してみてください。

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