中1社会(歴史)の「古代日本の成り立ち」を、地図・年表・表と例題で1つずつ確かめるページです。旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代と順に学び、「日本列島では、大陸とどのように関わりながら、国ができていった?」という問いに答えます。どの見出しも「答え → 図 → 理由 → 解き方」の順に書いています。紙に書いて練習したい人は、下の無料プリントを使ってください。
⏱ 30秒でわかる この単元の要点
- 氷河時代は海面が低く、日本列島は大陸と陸続きのときがあった。旧石器時代の人々は打製石器を使い、移動しながらくらした(岩宿遺跡)
- 縄文時代は縄文土器・弓矢を使い、貝塚を残し、たて穴住居でむらをつくって定住した。土偶は祈りのための人形と考えられている
- 大陸から稲作や金属器が伝わった弥生時代は、石包丁・高床倉庫を使った。米をたくわえて身分の差や争いが生まれ、くにと王が現れた(吉野ヶ里遺跡)
- 中国の歴史書で日本は倭とよばれた。奴国の王は後漢から金印を授かり、卑弥呼は邪馬台国の女王として魏から親魏倭王の称号を授かった
- 3世紀後半から古墳がつくられ、大和政権が豪族を従えた。大王の力は関東から九州に及び、渡来人が須恵器・漢字・仏教などを伝えた
つまずき注意:金印は奴国の王が日本でつくらせたものではなく、後漢の皇帝が授けたものです。縄文土器は厚手で黒っぽく、弥生土器は薄手でかたい、と逆にしないようにしましょう。大仙古墳は奈良県ではなく大阪府にあります。
このあとの飛鳥時代(聖徳太子・大化の改新・壬申の乱)は、中1社会「飛鳥時代」で解説しています。
無料ダウンロード(登録不要)
説明 1〜10ページ/確認問題 11〜13ページ/覚えることの一覧 14ページ/答えと解説 15〜17ページ。この記事の見出しごとに、対応するページを書いています。
日本列島では、どのようにして国ができていった?
📄 プリント1ページ
答え:日本列島の歴史は、旧石器時代 → 縄文時代 → 弥生時代 → 古墳時代の順に進みます。日本にはまだ文字が無かったので、当時のようすは、遺跡や土器などの出土品と、中国の歴史書から分かります。
| 旧石器時代(氷河時代) | 縄文時代(約1万数千年前から) | 弥生時代(稲作が広まってから) | 古墳時代(3世紀後半から) |
|---|---|---|---|
| 打製石器を使い、移動しながらくらした | 縄文土器を使い、むらをつくって住み続けた | 米づくりが始まり、「くに」が生まれた | 大きな墓がつくられ、力の強い王が現れた |
| 2ページ | 3ページ | 4・5ページ | 8・9ページ |
理由(この記事で学ぶ4つ):
- 旧石器時代と縄文時代のくらし(2・3ページ)
- 稲作と「くに」の始まり(4・5ページ)
- 中国の歴史書に書かれた日本(6・7ページ)
- 古墳と大和政権(8・9ページ)
まちがえやすい
✕ 日本には文字があったので、昔のようすは日本の記録で分かる → ◯ まだ文字が無かったので、遺跡や出土品と、中国の歴史書から分かる
基本旧石器時代の次に始まる時代は、何時代ですか。
表を左から右へ順に見ます。
答え:縄文時代
標準次の文のうち、正しいものはどれですか。ア 縄文時代に、米づくりが始まった。 イ 弥生時代に、米づくりが始まり、「くに」が生まれた。 ウ 古墳時代に、打製石器を使い、移動しながらくらした。
米づくりが始まったのは、稲作が広まった弥生時代です。打製石器を使って移動していたのは旧石器時代です。
答え:イ
日本列島に、人々はいつ、どのようにやってきた?
📄 プリント2ページ
答え:氷河時代には海面が今より低く、日本列島は大陸と陸続きのときがありました。人々は、大陸からわたってきた大型の動物(ナウマンゾウなど)を追ってわたってきました。約1万年前までに気温が上がり、海面が上がって、今の日本列島の形ができました。
理由(日本列島ができるまで):
- 氷河時代(長く続いた寒い時代)は、陸の氷がふえて海面が今より低く、日本列島は大陸と陸続きのときがあった
- ナウマンゾウなどの大型の動物が大陸からわたってきて、人々も動物を追ってわたってきた
- 約1万年前までに気温が上がり、海面が上がった
- 今の日本列島の形ができた
日本と大陸の間の海には、浅い所があります。海面が120mほど下がると、浅い所が陸になります(図で、今の海岸線より外に広がるうすい灰色の所)。
日本の旧石器時代と岩宿遺跡:日本の旧石器時代の人々は、打製石器を使い、狩りや木の実などの採集をして、食べ物を求めて移動しながらくらしました。群馬県の岩宿遺跡では、火山灰が積もってできた赤土の層から、打製石器が見つかりました。
- それまで:赤土の層ができたころの日本には、人は住んでいなかったと考えられていた
- 岩宿遺跡のその層から、打製石器が見つかった
- 日本にも旧石器時代があったことが分かった
まちがえやすい
✕ 日本には、旧石器時代は無かった → ◯ 岩宿遺跡で打製石器が見つかり、あったと分かった
基本旧石器時代の人々が使った、石を打ちかいてつくった道具を何といいますか。
岩宿遺跡で見つかった道具でもあります。
答え:打製石器
標準氷河時代の日本列島について、正しいものを選びなさい。ア 海面が今より低く、大陸と陸続きのときがあった。 イ 海面が今より高く、大陸からはなれていた。
氷河時代は寒くて陸の氷がふえ、海面が下がりました。
答え:ア
理由海面が下がると、日本列島が大陸と陸続きになるのはなぜですか。「浅い所」という語を使って説明しなさい。
日本と大陸の間の海のようすを思い出します。
答え:日本と大陸の間の海には浅い所があり、海面が120mほど下がると、その浅い所が陸になるから。
標準日本列島ができるまでを、起きた順に並べなさい。ア 気温が上がり、海面が上がる イ 氷河時代に、海面が今より低くなり、日本列島が大陸と陸続きのときがある ウ 今の日本列島の形ができる エ ナウマンゾウなどの大型の動物が大陸からわたってきて、人々も動物を追ってわたってくる
海面が低く陸続きのときに動物や人がわたってきて、そのあと気温が上がって海面が上がり、約1万年前までに今の形ができました。
答え:イ → エ → ア → ウ
縄文時代の人々は、自然とどのようにくらしていた?
📄 プリント3ページ
答え:約1万数千年前から縄文時代が始まりました。気温が上がって自然が変わると、縄文時代の人々は、縄文土器や弓矢を使い、木の実・動物・魚や貝を食べ、たて穴住居でむらをつくって住み続けました。
理由(自然の変化とくらしの変化):
| 自然の変化 | くらしの変化 |
|---|---|
| 大型の動物が減り、シカ・イノシシなど動きの速い動物がふえた | 弓矢で動物をとった |
| 森が広がり、どんぐり・くり・くるみなどの木の実がふえた | 土器で煮たり、たくわえたりした |
| 海が陸に入りこみ、魚や貝がとれるようになった | 漁をして、貝を食べた |
| 縄文のくらし5つ | |
|---|---|
| 道具 | 縄文土器・磨製石器・弓矢。打製石器もいっしょに使った |
| 食べ物 | 木の実・動物・魚や貝(狩り・漁・採集) |
| ごみ捨て場 | 貝塚:食べ物の残りの貝がらや動物の骨などを捨てた所。何を食べていたかが分かる。今は海から遠い所の貝塚は、そのころ海が陸の奥まで入りこんでいた証拠 |
| 住まい | たて穴住居:地面を掘り下げて柱を立て、屋根をかけた住まい。むらをつくり、1か所に住み続けた(定住) |
| 祈り | 土偶:土でつくった人形。魔よけや、食べ物が豊かになること・子どもが生まれることを祈るためにつくられたと考えられている |
縄文土器は、縄目のような文様がついたものが多く、厚手で黒っぽい茶色です。低い温度で焼きました。
青森県の三内丸山遺跡は、縄文時代の大きなむらのあとです。大きなたて穴住居や大きな柱のあとが見つかり、大きな建物があったと考えられています。くりの木も育てていたと考えられています。1か所に住み続け、むらをつくってくらすようになりました。
まちがえやすい
✕ 磨製石器が使われるようになると、打製石器は使われなくなった → ◯ 役割がちがうので、どちらも使った
基本縄文時代の人々が、食べ物の残りの貝がらや動物の骨などを捨てた所を、何といいますか。
表の「ごみ捨て場」の行を見ます。
答え:貝塚
標準地面を掘り下げて柱を立て、屋根をかけた縄文時代の住まいを、何といいますか。
むらをつくって住み続けた人々の住まいです。
答え:たて穴住居
理由気温が上がって森が広がると、縄文時代のくらしはどう変わりましたか。「木の実」「土器」という語を使って説明しなさい。
自然の変化とくらしの変化の表の、2行目を読みます。
答え:どんぐり・くり・くるみなどの木の実がふえ、土器で煮たり、たくわえたりするようになった。
米づくりが伝わると、どんな道具や建物が使われるようになった?
📄 プリント4ページ
答え:縄文時代の終わりごろ、大陸(朝鮮半島など)から九州北部に稲作が伝わり、やがて東日本にも広まりました。稲作が広まった時代を弥生時代といいます。弥生土器、石包丁、高床倉庫、青銅器や鉄器などの金属器が使われました。
理由(道具と建物):人々は水田の近くにむらをつくり、木のくわやすきで田を耕しました。
| 縄文土器 | 弥生土器 | |
|---|---|---|
| 厚さ | 厚手 | 薄手でかたい |
| 色 | 黒っぽい茶色 | 赤っぽい茶色 |
| 温度 | 低い温度で焼く | やや高い温度で焼く |
| 名前 | 縄目の文様が多い | 東京都の弥生町で最初に見つかった |
石包丁は、稲の穂をつみとる磨製石器です。高床倉庫は、床を高くして湿気やねずみを防ぎ、米をたくわえた倉庫です。柱の上の方には、ねずみが登れないように板(ねずみ返し)を付けました。静岡県の登呂遺跡では、水田のあとや高床倉庫のあとが見つかっています。
弥生時代には、金属器(青銅器と鉄器)が、大陸から同じころに伝わりました。
| 青銅器 | 鉄器 | |
|---|---|---|
| 例 | 銅鐸・銅鏡・銅剣・銅矛 | 武器・農具・工具 |
| 使いみち | おもに祭りの道具 | 実際の道具として使う |
まちがえやすい
✕ 弥生土器は、厚手で黒っぽい → ◯ それは縄文土器。弥生土器は薄手でかたい
基本稲の穂をつみとるのに使った、磨製石器を何といいますか。
弥生時代の道具です。
答え:石包丁
標準弥生土器の特色として、正しいものを選びなさい。ア 厚手で黒っぽい茶色 イ 薄手でかたく、赤っぽい茶色
アは縄文土器の特色です。
答え:イ
理由弥生時代に使われた青銅器と鉄器は、使いみちがどうちがいますか。
表の「使いみち」の行を読み比べます。
答え:青銅器はおもに祭りの道具として使い、鉄器は武器・農具・工具など実際の道具として使った。
米づくりで、むらどうしの関係はどう変わった?
📄 プリント5ページ
答え:米をたくわえられるようになると、貧富の差や身分の差が生まれました。土地や水をめぐってむらどうしが争い、強いむらが周りのむらを従えて小さなくにになり、くにを治める王が現れました。
理由(むらから「くに」へ):
- 米をたくわえられるようになる(稲作では、たくさんとれた米を倉庫にためておけるから)
- たくわえの多い人と少ない人ができる(貧富の差)。むらを指導する人と従う人ができる(身分の差)
- 土地や水、たくわえをめぐって、むらどうしが争う(米づくりには、田に使う土地や水が欠かせないから)
- 強いむらが周りのむらを従えて、小さな「くに」になる(争いに勝ったむらが、負けたむらを従えるから)
- くにを治める王が現れる(くにをまとめて指導する人が必要になるから)
佐賀県(九州の北部)の吉野ヶ里遺跡は、周りを深い堀やさくで囲んだ大きなむらのあとです。
| 見つかった物 | 分かること |
|---|---|
| 深い堀とさく、物見やぐらのあと | 争いに備えていた |
| 大きなむら | 多くの人をまとめる王がいたと考えられている |
| 縄文時代 | 弥生時代 | |
|---|---|---|
| 食べ物の手に入れ方 | 狩り・漁・採集 | 稲作も加わった |
| たくわえ | 少ない | 米をたくわえる |
| 身分の差 | ほとんど無かったと考えられている | ある |
| むらどうしの争い | 少なかったと考えられている | ふえた |
| むらの守り | ― | 堀やさくで囲んだむらがあった |
こうしてできた「くに」のようすは、中国の歴史書に書かれています(6・7ページ)。
まちがえやすい
✕ 弥生時代のむらは、どれも平和で争いは無かった → ◯ 堀やさくで囲んだむらがあり、むらどうしの争いがあった
基本くにを治めるようになった人を、何といいますか。
争いの後、くにをまとめて指導する人が必要になりました。
答え:王
理由吉野ヶ里遺跡で、周りを囲む深い堀とさく、物見やぐらのあとが見つかったことから、どんなことが分かりますか。
表の「見つかった物」と「分かること」の1行目を使います。
答え:争いに備えていたことが分かる。
文字の無かったころの日本のことが、なぜ分かる?
📄 プリント6ページ
答え:漢字を使っていた中国の王朝が、まわりの国のことも歴史書に書いたからです。中国は日本を倭とよびました。『漢書』『後漢書』には、倭のくにが中国に使いを送ったことが書かれています。
理由(史料から分かること):楽浪郡は、朝鮮半島にあった漢の拠点です。次の2つの史料は、やさしく書きかえ、一部を省いたものです。
史料A『漢書』地理志:楽浪郡の海のかなたに倭人がいて、100余りの国に分かれている。決まった時期に、みつぎ物を持ってあいさつに来るという。
史料B『後漢書』東夷伝:57年、倭の奴国が、みつぎ物を持ってあいさつに来た。……光武帝(後漢の皇帝)は、印(はんこ)とそれを結ぶひもを授けた。
史料の読み方は、「いつ・だれが・何をした」を抜き出すことです。史料Bの場合は、次のようになります。
| いつ | だれが | 何をした |
|---|---|---|
| 57年 | 奴国(の王)が | 後漢に使いを送り、印を授けられた |
奴国の王が授けられた金印は、江戸時代に福岡県の志賀島で見つかりました。印には「漢委奴国王」(漢の委〈倭〉の奴の国王)と刻まれています。奴国は、今の福岡県のあたりにあったと考えられています。
朝貢とは、中国の皇帝に使いを送り、みつぎ物をさし出して、王として認めてもらうことです。
- 中国の皇帝に使いを送り、みつぎ物をさし出す
- 皇帝が王と認め、金印や品物を授ける
- 皇帝の後ろだてで、国内のほかのくにより強い立場に立てる
くにの王が、中国の皇帝に認めてもらって力を強めようとしたのです。
まちがえやすい
✕ 金印は、奴国の王が日本でつくらせた → ◯ 後漢の皇帝が授けた
基本中国の歴史書で、日本はなんとよばれましたか。
『漢書』『後漢書』に出てくる名前です。
答え:倭
標準江戸時代に福岡県の志賀島で見つかった、後漢の皇帝が奴国の王に授けたものは何ですか。
印には「漢委奴国王」と刻まれています。
答え:金印
理由くにの王が中国の皇帝に朝貢すると、どんなよいことがありましたか。「後ろだて」という語を使って説明しなさい。
朝貢でわかる3つの流れの、最後の1つを使います。
答え:皇帝が王と認め、皇帝の後ろだてで、国内のほかのくにより強い立場に立てた。
邪馬台国の卑弥呼は、どのようにして国々をまとめた?
📄 プリント7ページ
答え:『魏志』倭人伝によると、倭では争いが続いたあと、国々が共に女性の卑弥呼を王に立てました。卑弥呼は邪馬台国の女王として、まじないで30ほどの国をまとめました。
理由(『魏志』倭人伝を読む):次の史料Cは、やさしく書きかえ、一部を省いたものです。
史料C『魏志』倭人伝:倭には、もとは100余りの国があったが、今、使いが行き来しているのは30ほどの国である。……倭の国は、もとは男の王が治めていたが、国が乱れ、何年も争いが続いた。そこで国々は、共に一人の女性を王に立てた。名を卑弥呼という。卑弥呼はまじないを行い、人々をひきつけた。……239年、倭の女王は魏に使いを送ってきた。……魏の皇帝は、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印や銅鏡100枚などを授けた。
| いつ | 3世紀(239年) |
|---|---|
| どこ | 倭の邪馬台国(どこにあったかは、まだ分かっていない) |
| だれ | 女王卑弥呼 |
| 何をした | 争いの後に王に立てられ、まじないで30ほどの国をまとめた。魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と金印・銅鏡100枚などを授けられた |
3つの歴史書をくらべる:
| 歴史書 | 王朝 | いつごろ | 書かれていること |
|---|---|---|---|
| 『漢書』地理志 | 漢 | 紀元前1世紀ごろ | 倭は100余りの国に分かれていた |
| 『後漢書』東夷伝 | 後漢 | 57年 | 奴国の王が金印を授けられた |
| 『魏志』倭人伝 | 魏 | 3世紀(239年) | 卑弥呼が30ほどの国をまとめた |
中国の王朝は、漢 → 後漢 → 魏 の順です。年代の線に表すと、次のようになります。
史料Aでは「100余りの国」、史料Cでは「30ほどの国」です。国の数が減っているので、くにどうしがまとまり、大きなくにができていったと考えられます(5ページの流れの続き)。
まちがえやすい
✕ 『魏志』倭人伝は、日本でつくられた歴史書 → ◯ 中国(魏)の歴史書
基本卑弥呼が女王だった国を、何といいますか。
『魏志』倭人伝に出てくる国です。
答え:邪馬台国
標準『魏志』倭人伝について、正しいものを選びなさい。ア 中国(魏)の歴史書である。 イ 日本でつくられた歴史書である。
日本にはまだ文字が無かったころのことです。
答え:ア
理由史料Aでは倭は「100余りの国」、史料Cでは「30ほどの国」と書かれています。国の数が減っていることから、どんなことが考えられますか。
くにどうしの関係を、5ページの流れと結びつけます。
答え:くにどうしがまとまり、大きなくにができていったと考えられる。
大きな古墳は、何を教えてくれる?
📄 プリント8ページ
答え:王や豪族の墓を古墳といい、3世紀後半から各地でつくられました。大きな前方後円墳があることや、同じ大王の名が刻まれた鉄剣と鉄刀が見つかったことから、大和政権が各地の豪族を従えて広い地域をまとめたことが分かります。
理由(古墳と大和政権):豪族とは、その地域を支配する有力な一族です。古墳は土をもり上げてつくり、古墳の上や周りには、人や馬などの形をした焼き物の埴輪が並べられ、鏡・玉・鉄の武器などもいっしょにおさめられました。
前が四角、後ろが円の形(上から見るとかぎ穴のような形)を前方後円墳といいます。大阪府堺市の大仙古墳(仁徳陵古墳)は日本最大の前方後円墳で、墳丘の長さは約486m(学校の100mの直線を5本つなげたくらい)です。それだけ多くの人を動かせる力をもった王がいたことが分かります。
大和政権(ヤマト王権ともいう)とは、3世紀後半ごろ、奈良盆地を中心とする地域の有力な豪族たちがまとまってできた勢力で、王は大王とよばれました。大和政権の力が広がった証拠は、次の2つです。
- 大きな前方後円墳が近畿地方(奈良県・大阪府)に多く、同じ形の古墳が各地にもつくられた(大和政権に従った豪族もつくった)
- 稲荷山古墳(埼玉県)の鉄剣と江田船山古墳(熊本県)の鉄刀に、同じ「ワカタケル大王」の名が刻まれている(どちらも5世紀)
5世紀には、関東から九州まで大王の力が及んでいました。
まちがえやすい
✕ 大仙古墳は、奈良県にある → ◯ 大阪府(堺市)にある
基本前が四角、後ろが円の形をした古墳を、何といいますか。
上から見るとかぎ穴のような形です。
答え:前方後円墳
標準古墳の上や周りに並べられた、人や馬などの形をした焼き物を、何といいますか。
古墳に並べられたものです。
答え:埴輪
理由大仙古墳のような大きな古墳がつくられたことから、どんなことが分かりますか。「多くの人」という語を使って説明しなさい。
約486mもある古墳をつくるのに必要なことを考えます。
答え:それだけ多くの人を動かせる力をもった王がいたこと。
大和政権は、朝鮮半島や中国とどのように関わった?
📄 プリント9ページ
答え:大和政権は、鉄などの資源を求めて朝鮮半島の百済や加耶地域の国々と結びつき、高句麗や新羅と戦いました。5世紀には倭の五王が中国の南朝の宋に使いを送りました。朝鮮半島などから日本に移り住んだ渡来人が、技術や文化を伝えました。
| 位置 | 国 |
|---|---|
| 北部 | 高句麗 |
| 南西部 | 百済 |
| 南東部 | 新羅 |
| 南部 | 加耶(加羅)地域(小さな国々の集まり) |
理由(中国との関わり):5世紀の中国は南北に分かれ、南の王朝を南朝といいます。このころ、倭の五王とよばれる倭の5人の王が、南朝の宋にたびたび使いを送りました(『宋書』倭国伝)。朝鮮半島での立場を示す高い地位(称号)を、皇帝に認めてもらおうとしたのです(6ページの朝貢と同じ考え方)。
渡来人とは、朝鮮半島などから日本に移り住んだ人々です。
| 渡来人が伝えたもの | |
|---|---|
| 技術 | 須恵器(かたくて灰色の土器)・機織り・金属を加工する技術・土木(ため池など) |
| 文化 | 漢字・儒教(孔子の教え)・仏教(6世紀に百済から正式に伝わった) |
渡来人は、大和政権で、漢字を使った記録や、財政・外交の仕事にあたりました。
| 土器の移り変わり | 縄文土器 | 弥生土器 | 須恵器 |
|---|---|---|---|
| 焼き方 | 低い温度 | やや高い温度 | 窯で高い温度 |
| 色・かたさ | 黒っぽい茶色・厚手 | 赤っぽい茶色・薄くかたい | 灰色でかたい |
まちがえやすい
✕ 渡来人は、日本から朝鮮半島にわたった人々 → ◯ 朝鮮半島などから日本に移り住んだ人々
基本朝鮮半島の南西部にあった国を答えなさい。
表の「位置」の行を見ます。
答え:百済
標準渡来人が伝えた、かたくて灰色の土器を何といいますか。
窯で高い温度で焼いた土器です。
答え:須恵器
理由大和政権が、朝鮮半島の百済や加耶地域の国々と結びついたのはなぜですか。
大和政権が朝鮮半島に求めた物を思い出します。
答え:鉄などの資源を求めたから。
日本列島では、大陸とどのように関わりながら、国ができていった?
📄 プリント10ページ
答え:稲作や金属器が大陸から伝わり、米をたくわえるようになると、身分の差や争いが生まれ、くにと王が現れました。くにの王は中国の皇帝に朝貢して力を強め(奴国・卑弥呼)、やがて大和政権が各地の豪族を従えました。大和政権は鉄を求めて朝鮮半島と関わり、渡来人が伝えた技術や文化を取り入れて力を強めました。
理由(4つの時代をくらべる):
| 道具とくらし | むらや社会のようす | 大陸とのつながり | |
|---|---|---|---|
| 旧石器時代 | 打製石器を使い、狩りや採集をした | 食べ物を求めて移動しながらくらした | 氷河時代に、大型の動物を追って大陸からわたってきた |
| 縄文時代 | 縄文土器・磨製石器・弓矢を使った。貝塚ができた | たて穴住居でむらをつくり、定住した | 海面が上がり、大陸と海でへだてられた(今の日本列島の形ができた) |
| 弥生時代 | 稲作を行い、弥生土器・石包丁・高床倉庫・金属器を使った | 身分の差や争いが生まれ、むらがまとまって「くに」になり、王が現れた | 大陸から稲作や金属器が伝わった。王が中国の皇帝に朝貢した |
| 古墳時代 | 古墳がつくられ、埴輪が並べられた | 大和政権が、各地の豪族を従えて、広い地域をまとめた | 朝鮮半島の国々と結びつき、倭の五王が宋に使いを送った。渡来人が技術や文化を伝えた |
| 年 | できごと |
|---|---|
| 氷河時代 | 大陸と陸続きのときがあった |
| 約1万数千年前 | 縄文時代の始まり |
| 約1万年前 | 今の日本列島の形ができる |
| 縄文時代の終わりごろ | 稲作が伝わる → 弥生時代 |
| 紀元前1世紀ごろ | 倭は100余りの国(『漢書』地理志) |
| 57年 | 奴国の王が金印を授けられる |
| 239年 | 卑弥呼が魏に使いを送る |
| 3世紀後半 | 古墳がつくられ始める・大和政権 |
| 5世紀 | 倭の五王が宋に使いを送る・ワカタケル大王 |
| 6世紀 | 仏教が伝わる |
答えを書くときのコツ:表の「大陸とのつながり」の列を、上から順に読みます。稲作・金属器・朝貢・鉄・渡来人の技術や文化を、できごとの順に並べて、「だから大陸と関わりながら国ができていった」とむすびます。
まちがえやすい
✕ 日本の国は、大陸と関わらずにできた → ◯ 稲作・金属器・漢字などの大陸の物や、中国の皇帝の後ろだてが、国づくりに大きく関わった
基本年表で、6世紀に日本に伝わったものは何ですか。
年表の6世紀の行を見ます。
答え:仏教
標準次のできごとを、年代の古い順に並べなさい。ア 古墳がつくられ始める イ 稲作が伝わる ウ 縄文時代が始まる エ 倭の五王が宋に使いを送る
ウは約1万数千年前、イは縄文時代の終わりごろ、アは3世紀後半、エは5世紀です。
答え:ウ → イ → ア → エ
理由弥生時代に、大陸から日本に伝わったものを2つ答えなさい。
表の弥生時代の「大陸とのつながり」の欄を読みます。
答え:稲作、金属器(青銅器と鉄器)
✅ 一問一答で総チェック(20問)
問題を読んで、答えを頭の中で言ってからタップしましょう。答えが出ます。
-
群馬県で、打製石器が見つかった遺跡は?
答え:岩宿遺跡
-
旧石器時代の人々が追ってわたってきた、大型の動物の例は?
答え:ナウマンゾウ
-
食べ物の残りの貝がらや動物の骨などを捨てた所は?
答え:貝塚
-
縄文時代に、地面を掘り下げて柱を立て、屋根をかけた住まいは?
答え:たて穴住居
-
魔よけや豊かさを祈るためにつくられたと考えられている、土でつくった人形は?
答え:土偶
-
青森県にある、縄文時代の大きなむらのあとは?
答え:三内丸山遺跡
-
稲の穂をつみとるのに使った磨製石器は?
答え:石包丁
-
床を高くして湿気やねずみを防ぎ、米をたくわえた倉庫は?
答え:高床倉庫
-
静岡県で、水田のあとや高床倉庫のあとが見つかった遺跡は?
答え:登呂遺跡
-
周りを深い堀やさくで囲んだ、佐賀県の大きなむらのあとは?
答え:吉野ヶ里遺跡
-
中国の歴史書で、日本はなんとよばれた?
答え:倭
-
57年に奴国の王が後漢の皇帝から授けられ、志賀島で見つかった印は?
答え:金印
-
中国の皇帝に使いを送り、みつぎ物をさし出して、王として認めてもらうことは?
答え:朝貢
-
239年に魏に使いを送った、邪馬台国の女王は?
答え:卑弥呼
-
前が四角、後ろが円の形をした古墳は?
答え:前方後円墳
-
古墳の上や周りに並べられた、人や馬などの形をした焼き物は?
答え:埴輪
-
3世紀後半ごろ、奈良盆地を中心とする地域の豪族たちがまとまってできた勢力は?
答え:大和政権
-
稲荷山古墳の鉄剣と江田船山古墳の鉄刀に、同じ名前が刻まれていた大王は?
答え:ワカタケル大王
-
5世紀に、南朝の宋にたびたび使いを送った倭の5人の王は?
答え:倭の五王
-
朝鮮半島などから日本に移り住んで、技術や文化を伝えた人々は?
答え:渡来人
まとめ
日本の旧石器時代の人々は、氷河時代に大陸からわたってきて、打製石器を使って移動しながらくらしました。縄文時代には、縄文土器を使い、たて穴住居でむらをつくって定住しました。大陸から稲作や金属器が伝わった弥生時代には、米をたくわえるようになって身分の差や争いが生まれ、くにと王が現れました。奴国の王や卑弥呼は中国の皇帝に朝貢して力を強めました。古墳時代には、大和政権が各地の豪族を従えて広い地域をまとめ、朝鮮半島の国々と結びついて、渡来人が伝えた技術や文化を取り入れました。プリントの確認問題で、年表や表を見ながら手を動かして練習してみてください。

コメント