⏱ 30秒でわかる この単元の要点
- 江戸時代の農業は、新田開発で耕地がふえ、備中ぐわ・千歯こき・唐箕などの農具や、干鰯・油かすなど買う肥料が広まった。百姓は商品作物を売ってお金を得た。江戸・大阪・京都の三都では株仲間や両替商が力をもった
- 5代将軍綱吉は、武力でおさえる政治から学問や礼儀を重んじる文治政治に変えた。元禄文化は上方の町人が中心で、西鶴・近松・芭蕉が活躍。化政文化は江戸の町人が中心で、錦絵が大量に刷られた
- 1716年に吉宗が始めた享保の改革は、倹約・上げ米・新田開発と年貢の取り方の変更・公事方御定書・目安箱で、財政が一時立ち直ったが年貢が重くなり、享保のききんで一揆が起こった
- 1772年に老中になった田沼意次は、株仲間をすすめて税を取り、長崎の貿易をふやした。1787年に老中になった松平定信は寛政の改革で囲い米や倹約をすすめたが、きびしすぎて反発を受けた
- 18世紀の終わりから外国船が近づき、1825年に異国船打払令が出た。1841年に水野忠邦が始めた天保の改革は、株仲間の解散や上知令などで短い期間で失敗し、幕府の力はおとろえて雄藩が力をつけた
つまずき注意:田沼意次は株仲間をすすめ、株仲間を解散させたのは天保の改革の水野忠邦。商工業の力を利用したのは田沼の政治で、享保・寛政・天保の改革は倹約と年貢・農村の立て直しなどが中心。元禄文化は上方、化政文化は江戸の町人が中心。打ちこわしは都市、百姓一揆は農村で起こった。
中2社会(歴史)の「産業の発達と幕府政治の改革」を、図と例題で1つずつ確かめるページです。江戸時代の中ごろから後半にかけて、農業・都市・交通が発達して町人が力をつけた一方で、幕府の財政は苦しくなり、享保・寛政・天保の改革(三大改革)と田沼意次の政治がくり返されました。田沼意次と三大改革の方向性のちがいまで、年号とともに学びます。どの見出しも「答え → 図 → 理由 → 解き方」の順に書いています。紙に書いて練習したい人は、下の無料プリントを使ってください。
無料ダウンロード(登録不要)
▶ 産業の発達と幕府政治の改革 授業用プリント(全22ページ)
説明 1〜16ページ/確認問題 17〜19ページ/覚えることの一覧 20ページ/答えと解説 21・22ページ。この記事の見出しごとに、対応するページを書いています。
- 江戸時代の中ごろから後半へ:産業の発達と改革の流れ
- 江戸時代の農業は、どのように発達した? 新田開発と農具・商品作物
- 農業のほかに、どんな産業がさかんになった? 漁業・鉱山・特産物
- 江戸・大阪・京都は、それぞれどんな都市だった? 三都と株仲間
- 人や物は、どのように運ばれた? 五街道と航路
- 5代将軍の綱吉は、どんな政治を行った? 武断政治から文治政治へ
- 元禄文化は、だれが中心になった、どんな文化?
- 8代将軍の吉宗は、どのように幕府を立て直そうとした? 享保の改革
- 農村と物づくりは、どのように変わった? 地主・小作人と百姓一揆・打ちこわし
- 田沼意次は、どのように幕府の収入をふやそうとした?
- 松平定信は、どのように政治を立て直そうとした? 寛政の改革
- 江戸時代の後半には、どんな学問が広まった? 国学・蘭学と寺子屋
- 化政文化は、元禄文化とどうちがう?
- 18世紀の終わりから、どんな外国の船が日本に来た?
- 天保の改革は、なぜ失敗した?
- なぜ、幕府は何度も改革をしなければならなかった? 田沼意次と三大改革の方向性のちがい
- まとめ
江戸時代の中ごろから後半へ:産業の発達と改革の流れ
📄 プリント1ページ
答え:平和が続くと、産業や交通が発達し、町人が力をつけて新しい文化が生まれました。一方で幕府の財政(お金のやりくり)は苦しくなり、ききんや外国船の接近も重なって、幕府は改革をくり返しました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1680年 | 綱吉が5代将軍になる |
| 1716年 | 吉宗が享保の改革を始める |
| 1772年 | 田沼意次が老中になる |
| 1787年 | 松平定信が寛政の改革を始める |
| 1792年 | ラクスマンが根室に来る |
| 1825年 | 異国船打払令が出される |
| 1837年 | 大塩平八郎の乱 |
| 1841年 | 水野忠邦が天保の改革を始める |
この単元で学ぶこと(この記事の見出しも、この順です):①産業と都市(2〜5ページ)②元禄のころ(6・7ページ)③享保から寛政へ(8〜11ページ)④学問と化政文化(12・13ページ)⑤外国船と天保の改革(14・15ページ)。16ページで、田沼意次と3つの改革のちがいをまとめます。
理由:⑤で学んだように、幕府は大名・外国・人々をおさえるしくみをつくりました。江戸時代の前半です。中ごろ(17世紀の終わり〜18世紀)と後半(18世紀の終わり〜19世紀の前半)は、社会が大きく変わっていく時期です。まず年表で、改革の順番をつかんでおくと、あとの見出しがつながります。
世紀の数え方:18世紀は1701〜1800年、19世紀は1801〜1900年です。ちょうど1800年は18世紀の最後の年です。
まちがえやすい
✕ 田沼意次が、享保の改革を行った → ◯ 享保の改革は徳川吉宗(1716年)。田沼意次は1772年に老中になって政治を行った
基本田沼意次が老中になった1772年と、水野忠邦が天保の改革を始めた1841年は、それぞれ何世紀ですか。
18世紀は1701〜1800年、19世紀は1801〜1900年です。
答え:1772年=18世紀、1841年=19世紀
標準吉宗が享保の改革を始めたのは1716年、松平定信が寛政の改革を始めたのは1787年、水野忠邦が天保の改革を始めたのは1841年です。享保の改革から寛政の改革まで、寛政の改革から天保の改革まで、それぞれ何年ありますか。
後の年から前の年をひきます。
享保の改革から寛政の改革:1787−1716=71(年)
寛政の改革から天保の改革:1841−1787=54(年)
答え:享保の改革から寛政の改革まで71年、寛政の改革から天保の改革まで54年
江戸時代の農業は、どのように発達した? 新田開発と農具・商品作物
📄 プリント2ページ
答え:幕府や藩は、年貢をふやすために新田開発を進めました。新しい農具が広まり、肥料はお金で買うようになり、百姓は売ってお金にするための商品作物をつくるようになりました。
⑤で学んだように、幕府や藩の収入の中心は、百姓が納める年貢(米)でした。新田開発は、用水路をつくったり、海や沼地を干拓(かんたく)したりして新しい田畑を開くことです。百姓も新田を開き、耕地は大きく増えました。
| 農具 | 何に使う | 何が変わった |
|---|---|---|
| 備中ぐわ | 土を深く耕す。刃が3〜4本に分かれている | 深く耕せる |
| 千歯こき | 稲の穂からもみ(実)をこき落とす(脱穀) | 脱穀が速くなった |
| 唐箕 | 風で、もみと、もみがら・ごみをより分ける | もみを選び分けられる |
肥料:草や灰のほかに、いわしを干した干鰯(ほしか)や、菜種などから油をしぼったかす(油かす)を、お金で買って使うようになりました。
商品作物:売ってお金にするためにつくる作物です。百姓は、商品作物を売ってお金を得るようになりました。
| 作物 | 何にするか・産地 |
|---|---|
| 綿・菜種 | 綿は木綿の布の原料、菜種は油の原料になった |
| 紅花・藍 | 染料(布を染める材料)になった。紅花は出羽(山形県)、藍は阿波(徳島県)が産地 |
| 茶・たばこ・桑 | 茶・たばこも売られた。桑は、かいこ(絹の糸をつくる虫)のえさになった |
覚え方:「備中ぐわで耕し、千歯こきでこく」。
まちがえやすい
✕ 千歯こきは、田を深く耕すための道具だ → ◯ 深く耕すのは備中ぐわ。千歯こきは、稲の穂からもみをこき落とす道具
基本江戸時代に、百姓がお金で買って使うようになった肥料を、2つ答えなさい。
草や灰のほかに、お金で買う肥料が使われるようになりました。
答え:干鰯、油かす
標準紅花と藍は、それぞれ何に使われましたか。また、紅花の産地と藍の産地は、それぞれどこですか。
どちらも布を染める材料(染料)になりました。
答え:どちらも染料。産地は、紅花=出羽(山形県)、藍=阿波(徳島県)
農業のほかに、どんな産業がさかんになった? 漁業・鉱山・特産物
📄 プリント3ページ
答え:農業のほかに、漁業や鉱山、手工業もさかんになり、各地でその土地の気候や原料を生かした特産物がつくられました。品物を売り買いする商業もさかんになりました。
| 産業 | 場所 | 中身 |
|---|---|---|
| 漁業 | 九十九里浜(千葉県) | いわし漁。とったいわしは干鰯にして、肥料として売られた |
| 蝦夷地(北海道) | にしん・こんぶ。アイヌの人々との交易(⑤)で本州へ運ばれた | |
| 土佐(高知県)・紀伊(和歌山県) | 土佐はかつお漁、紀伊などは捕鯨 | |
| 鉱山 | 佐渡(新潟県) | 金 |
| 石見(島根県) | 銀 | |
| 別子(愛媛県)・足尾(栃木県) | 銅 |
幕府は、おもな鉱山を直接支配し(⑤)、金・銀・銅で貨幣をつくりました。金・銀・銅は、長崎の貿易の輸出品にもなりました(⑤)。
各地の特産物:その土地の気候や原料を生かしてつくられた産物です。京都の西陣織、佐賀県の有田焼、兵庫県の灘の酒、千葉県の野田のしょうゆなどがあります。
理由(地図の読み方):地図で場所を答えるときは、地図で県の位置を確かめ、その場所の産物と合うかを考えます。
覚え方:「九十九里のいわしは干鰯に」。
まちがえやすい
✕ 江戸時代の鉱山の金や銀は、すべて外国に輸出された → ◯ 幕府は金・銀・銅で貨幣をつくった。輸出もされた(⑤)
基本表の鉱山のうち、銅がとれた場所を2つ答えなさい。
表の「鉱山」の行を見ます。佐渡は金、石見は銀です。
答え:別子(愛媛県)、足尾(栃木県)
標準幕府は、鉱山でとれた金・銀・銅を、何に使いましたか。2つ答えなさい。
幕府はおもな鉱山を直接支配しました。
答え:貨幣をつくることと、長崎の貿易の輸出品にすること
江戸・大阪・京都は、それぞれどんな都市だった? 三都と株仲間
📄 プリント4ページ
答え:江戸・大阪・京都をあわせて三都とよびます。江戸は「将軍のおひざもと」、大阪は「天下の台所」、京都は朝廷がある学問・文化の中心でした。都市では株仲間や両替商などの商人が力をもちました。
| 都市 | よび名 | 役割 |
|---|---|---|
| 江戸 | 「将軍のおひざもと」 | 幕府がある政治の中心。武士と町人が多く住む |
| 大阪 | 「天下の台所」 | 商業の中心。諸藩の蔵屋敷が置かれた |
| 京都 | (古くからの都) | 朝廷がある。西陣織などの工芸品と、学問・文化の中心 |
理由(都市の選び方):2・3ページの年貢米や品物は、都市に集まって売り買いされました。都市の説明を選ぶときは、「何の中心か」と「何があるか」の手がかりで決めます。中国人が住んだ唐人屋敷があったのは長崎です(⑤)。
大阪の蔵屋敷:諸藩が大阪などに置いた施設で、年貢米や特産物を運びこんで売り、お金にかえました。大名も、年貢米を売ったお金で暮らし、商人からお金を借りるようになりました。
商人の力:株仲間は、同じ商売の商人がつくった組合です。幕府や藩の許可を得て、税を納める代わりに、営業を独占しました。仲間以外は営業できませんでした。両替商は、金貨・銀貨・銭の交換や、お金の貸し付けをして、大きな力をもちました(三井・鴻池など)。東日本ではおもに金貨、西日本ではおもに銀貨が使われたので、両替商の交換の仕事が欠かせませんでした。
覚え方:「将軍の江戸、台所の大阪、都の京都」。
まちがえやすい
✕ 江戸は「天下の台所」とよばれた → ◯ 天下の台所は大阪。江戸は「将軍のおひざもと」
基本次の①〜③は、江戸・大阪・京都のどの都市の説明ですか。 ① 諸藩の蔵屋敷が置かれた ② 幕府がある ③ 朝廷がある
「何があるか」の手がかりで決めます。
答え:① 大阪 ② 江戸 ③ 京都
標準幕府や藩に税を納めて株仲間をつくった商人たちのうち、株仲間に入っていない人は、同じ商売をすることができましたか。
株仲間は、幕府や藩の許可を得て、営業を独占しました。
答え:できなかった(仲間以外は営業できなかった)
人や物は、どのように運ばれた? 五街道と航路
📄 プリント5ページ
答え:陸では江戸の日本橋を起点に五街道が整えられ、宿場と関所が置かれました。重い荷物は船で運ばれ、西廻り航路と東廻り航路が開かれました。
陸の道:五街道は、江戸の日本橋を起点に整えられた、東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中です。街道には宿場が置かれました。宿場は、旅人が泊まったり、荷物を運ぶ人や馬を取りかえたりした所で、大名が泊まる本陣もありました。手紙や荷物は飛脚が運びました。
関所:箱根(神奈川県)などの街道に置かれ、通る人や荷物を調べた所です。江戸に鉄砲が入ることと、江戸の屋敷の大名の妻が出ることをきびしく調べました(「入り鉄砲に出女」)。大名の反乱を防ぐためです。
海の道:重い荷物は、陸より船のほうが一度に多く運べました。17世紀の後半には、西廻り航路(酒田〈山形県〉から日本海と瀬戸内海を通って大阪へ)と東廻り航路(津軽海峡と太平洋を通って江戸へ)が開かれました。大阪と江戸の間は、菱垣廻船や樽廻船(酒の樽を運んだ)が、木綿・油・酒などを運びました。
| くらべること | 陸の道 | 海の道 |
|---|---|---|
| 運ぶもの | 人や手紙、少しの荷物。大名行列 | 米などの重い荷物を一度に多く |
| 道すじ | 五街道(宿場・関所) | 西廻り航路・東廻り航路・大阪と江戸の間の航路 |
覚え方:「西廻りは大阪へ、東廻りは江戸へ」。
まちがえやすい
✕ 西廻り航路は、太平洋を通って江戸へ米を運んだ → ◯ 西廻り航路は日本海と瀬戸内海を通って大阪へ。太平洋を通って江戸へ行くのは東廻り航路
標準関所で「入り鉄砲に出女」をきびしく調べたのは、何を防ぐためでしたか。また、「出女」とは、だれが江戸から出ることをさしますか。
江戸に鉄砲が入ることと、江戸の屋敷の大名の妻が出ることを調べました。
答え:大名の反乱を防ぐため。「出女」は、江戸の屋敷の大名の妻が出ること
基本米などの重い荷物を、一度に多く運べたのは、陸の道と海の道のどちらですか。
上の表の「運ぶもの」の行を見ます。
答え:海の道(船)
5代将軍の綱吉は、どんな政治を行った? 武断政治から文治政治へ
📄 プリント6ページ
答え:1680年に徳川綱吉が5代将軍になったころ、戦乱が終わって社会が安定していたので、幕府は武力でおさえる政治から、学問や礼儀を重んじる政治(文治政治)に変えました。一方で、幕府の財政は苦しくなり始めました。
| くらべること | 武断政治 | 文治政治 |
|---|---|---|
| やり方 | 武力で大名をおさえる。改易など(⑤) | 学問や礼儀を重んじ、身分の上下を守らせる |
朱子学:儒学の中の一つで、身分の上下や主君への忠義を大切にする教えです。綱吉が重んじ、江戸の湯島に孔子をまつる聖堂を建てました。
生類憐みの令:綱吉が出した、犬などの動物をとても大切にするように命じた法令です。人々を苦しめました。
貨幣の質と物価:
- 寺や神社を建てる費用などで、幕府の財政が苦しくなる
- 金・銀の産出も減る
- 貨幣の質を落として、量をふやす
- 物価が上がり、人々の暮らしが苦しくなる
新井白石の政治:18世紀の初め、6代・7代将軍に仕えた学者の新井白石は、貨幣の質をもとにもどしました。また、長崎での貿易の額を制限して、金・銀が海外に流れ出るのを防ぎました。どちらも、苦しくなった幕府の財政を立て直すための政治でした。
覚え方:「綱吉は武力より学問と礼儀」。
まちがえやすい
✕ 綱吉のころから、幕府は武力で大名をおさえる政治を強めた → ◯ 武力より、学問や礼儀を重んじる政治(文治政治)に変えた
標準幕府が、貨幣の質を落として量をふやしたあと、物価と人々の暮らしはどうなりましたか。
貨幣の質を落として量をふやしたあとのようすを書きます。
答え:物価が上がり、人々の暮らしが苦しくなった。
標準綱吉が5代将軍になったのは1680年、吉宗が享保の改革を始めたのは1716年です。何年あとですか。
年の差:1716−1680=36(年)
答え:36年あと
元禄文化は、だれが中心になった、どんな文化?
📄 プリント7ページ
答え:17世紀の終わりから18世紀の初め、5代将軍綱吉のころに、経済力をつけた上方(京都・大阪)の町人を中心に栄えた、明るく活気のある文化を元禄文化といいます。
理由:4・5ページで学んだように、商業の中心の大阪などで、町人が経済力をつけました。商業の発達 → 上方の町人が経済力をつける → 町人の文化が生まれる、という流れです。
| 分野 | 人物 | 作品や中身 |
|---|---|---|
| 小説(浮世草子) | 井原西鶴 | 町人の生活をえがいた「日本永代蔵」 |
| 脚本(人形浄瑠璃・歌舞伎) | 近松門左衛門 | 「曽根崎心中」 |
| 俳諧 | 松尾芭蕉 | 俳諧を芸術に高めた。各地を旅して「おくのほそ道」を書いた |
| 浮世絵 | 菱川師宣 | 町人の風俗をえがいた |
| 装飾画 | 尾形光琳 | はなやかな「燕子花図屛風」 |
人物と作品の見分け方:人物と作品の組み合わせを見分けるときは、まず「分野」(小説・脚本・俳諧・絵)を決めてから、人物を選びます。歌舞伎も人気を集めました。
覚え方:「元禄は上方、西鶴・近松・芭蕉」。
まちがえやすい
✕ 元禄文化は、江戸の庶民を中心に栄えた → ◯ 元禄文化は上方の町人が中心。江戸の町人が中心なのは化政文化(13ページ)
標準次の作品をつくった人物を、それぞれ答えなさい。 ① 「日本永代蔵」 ② 「曽根崎心中」 ③ 「おくのほそ道」
まず分野を決めます。① 小説、② 脚本、③ 俳諧です。
答え:① 井原西鶴 ② 近松門左衛門 ③ 松尾芭蕉
理由元禄文化が、上方の町人を中心に栄えたのは、なぜですか。
「商業」と「経済力」の2つを入れて書きます。
答え:商業の中心の大阪などで、町人が経済力をつけたから。
8代将軍の吉宗は、どのように幕府を立て直そうとした? 享保の改革
📄 プリント8ページ
答え:1716年、8代将軍の徳川吉宗は、幕府の財政を立て直すために享保の改革を始めました。倹約と上げ米、新田開発と年貢の取り方の変更などで、幕府の収入をふやそうとしました。
6ページで学んだように、幕府の財政は苦しくなっていました。1716年、紀伊藩主だった徳川吉宗が8代将軍になり、改革を始めました。
| 何をした | ねらい |
|---|---|
| 質素・倹約をすすめた | 出費をへらす |
| 上げ米:大名に、石高に応じて米を幕府に納めさせ、その代わりに、参勤交代で江戸にいる期間を短くした | 幕府の米をふやす |
| 新田開発をすすめ、年貢の取り方を変えた | 年貢をふやす |
| 1742年、それまでの判決の例をもとに、裁判や刑罰の基準となる公事方御定書を定めた | 裁判を公正にする |
| 目安箱を置いて、庶民の意見を聞いた(その意見から、貧しい病人のための小石川養生所がつくられた) | 庶民の意見を聞く |
| キリスト教に関係のない、ヨーロッパの本の輸入を認めた(12ページ) | ヨーロッパの学問を取り入れる |
上げ米のしくみ:大名が石高に応じて米を幕府に納め、その代わりに、幕府が大名の江戸にいる期間を短くしました。
改革の結果:幕府の財政は、一時立ち直りました。しかし、年貢が重くなり、1732年に享保のききんが起こり、百姓一揆や打ちこわしが起こりました(9ページ)。
覚え方:「吉宗は上げ米・御定書・目安箱」。
まちがえやすい
✕ 享保の改革では、大名に米を納めさせる代わりに、参勤交代をやめさせた → ◯ やめさせたのではなく、江戸にいる期間を短くした
標準上げ米で、大名は幕府に何を納め、その代わりに何を認められましたか。また、幕府は何がふえましたか。
大名は、石高に応じて米を納めました。その代わりに、参勤交代で江戸にいる期間が短くなりました。
答え:大名は米を納め、江戸にいる期間を短くしてもらった。幕府は米がふえた。
標準享保の改革は1716年、享保のききんは1732年、公事方御定書が定められたのは1742年です。改革が始まって、ききんが起こるまで、また公事方御定書が定められるまで、それぞれ何年ありますか。
ききんまで:1732−1716=16(年)
公事方御定書まで:1742−1716=26(年)
答え:ききんまで16年、公事方御定書まで26年
農村と物づくりは、どのように変わった? 地主・小作人と百姓一揆・打ちこわし
📄 プリント9ページ
答え:貨幣を使う暮らしが広まると、農村では田畑を手放す百姓が出て、地主と小作人に分かれ、貧富の差が広がりました。物づくりは問屋制家内工業から工場制手工業へ進み、ききんのたびに百姓一揆や打ちこわしが起こりました。
農村の変化(架空のH村の例):
- H村の百姓が、商品作物の綿をつくって売る(2ページ)
- 肥料の干鰯や農具を、お金で買うようになる
- お金に困った百姓が、田畑を手放して小作人になる
- 田畑を買い集めた百姓が、地主になる
地主は、田畑を買い集め、貸して小作料を取る豊かな百姓です。小作人は、田畑を手放し、地主から借りて耕す貧しい百姓です。こうして貧富の差が広がりました。
こうして貨幣を使う暮らしが広まると、物価が上がり、収入の中心が年貢(米)の幕府や藩の財政は苦しくなりました(16ページ)。
物づくりの変化:
| 問屋制家内工業(18世紀) | 工場制手工業(19世紀) | |
|---|---|---|
| つくり方 | 問屋が原料や道具を貸し、百姓が家でつくる。問屋が品物を買い取る | 大商人や地主が作業場をつくり、人々を集め、分業でつくる |
| 例 | 大阪周辺や尾張の綿織物など |
百姓一揆と打ちこわし:
| 百姓一揆 | 打ちこわし | |
|---|---|---|
| 起こった所 | 農村 | 都市 |
| したこと | 百姓たちが団結して、年貢を軽くすることや不正な役人をやめさせることなどを領主に求めた | 米の値段が上がって暮らしに苦しんだ人々が、米を買いしめた商人の家などをおそった |
覚え方:「村は一揆、町は打ちこわし」。
まちがえやすい
✕ 打ちこわしは、農村で百姓が領主に年貢を軽くするよう求めたことだ → ◯ それは百姓一揆。打ちこわしは都市で、商人の家などをおそった
標準次のア〜エを、起こった順に並べなさい。 ア 田畑を買い集めた百姓が、地主になる イ 百姓が、商品作物を売ってお金を得る ウ お金に困った百姓が、田畑を手放して小作人になる エ 肥料や農具を、お金で買うようになる
H村の例の流れにそって並べます。商品作物を売る → 肥料や農具を買う → 田畑を手放す → 地主になる、の順です。
答え:イ → エ → ウ → ア
基本問屋制家内工業と工場制手工業は、それぞれ何世紀に見られましたか。また、分業で品物をつくったのは、どちらですか。
18世紀は1701〜1800年、19世紀は1801〜1900年です。
答え:問屋制家内工業=18世紀、工場制手工業=19世紀。分業でつくったのは工場制手工業
田沼意次は、どのように幕府の収入をふやそうとした?
📄 プリント10ページ
答え:1772年に老中になった田沼意次は、年貢だけにたよらず、商工業の力を利用して幕府の収入をふやそうとしました。株仲間に特権をあたえて税を納めさせ、長崎での貿易で銅や俵物の輸出をふやしました。
8ページの享保の改革で財政は一時立ち直りましたが、年貢をふやすやり方だけでは、幕府の収入は足りませんでした。
| 何をした | ねらい |
|---|---|
| 株仲間をつくることをすすめ、特権をあたえる代わりに、税を納めさせた | 税を取る |
| 長崎での貿易を活発にし、銅や俵物(蝦夷地などの海産物のいりこ・ほしあわび・ふかひれを俵につめた物)の輸出をふやした | 貿易の利益を得る |
| 印旛沼(千葉県)を干拓して、新田を開こうとした | 新田を開く |
| 蝦夷地を調べさせた | ロシアとの貿易や開発を考える |
行きづまり:
- 商人の力が強まる
- 役人の間でわいろが広まったと批判される
- 1782年から天明のききんが続く
- 百姓一揆や打ちこわしが急にふえる
- 1786年、田沼が老中をやめさせられる
天明のききん:1782年から続いたききんです。1783年の浅間山の大噴火などによる冷害で、百姓一揆や打ちこわしが急にふえました。
覚え方:「田沼は商人の力で収入をふやす」。
まちがえやすい
✕ 田沼意次は、株仲間を解散させて、商人の力をおさえた → ◯ 田沼は株仲間をすすめた。解散させたのは天保の改革の水野忠邦(15ページ)
標準田沼意次が老中になったのは1772年、老中をやめさせられたのは1786年です。何年間でしたか。また、天明のききんが始まったのは、老中になって何年後ですか。
老中だった年数:1786−1772=14(年)
天明のききん(1782年)まで:1782−1772=10(年)
答え:14年間。天明のききんは10年後
比べる享保の改革と田沼意次の政治では、幕府の収入をふやすやり方が、どうちがいましたか。「年貢」「商工業」の2つの語を使って書きなさい。
享保の改革は、新田開発を進め、年貢の取り方を変えました。田沼意次は、年貢だけにたよりませんでした。
答え:享保の改革は年貢をふやす方法だったが、田沼意次の政治は年貢だけにたよらず、商工業の力を利用して収入をふやそうとした。
松平定信は、どのように政治を立て直そうとした? 寛政の改革
📄 プリント11ページ
答え:1787年、老中になった松平定信は寛政の改革を始め、農村を立て直し、倹約をすすめました。しかし、きびしすぎて、人々の反発を受けました。
10ページの天明のききんで、農村は荒れていました。1787年、吉宗の孫で白河藩主だった松平定信が老中になりました。
| 分野 | 中身 |
|---|---|
| 農村 | ききんに備えて、大名に米をたくわえさせた(囲い米)。江戸に出てきていた農民に、お金をあたえて村へ帰した |
| 武士 | 生活に苦しむ旗本・御家人の、商人からの借金を帳消しにした |
| 学問 | 幕府の学校(昌平坂学問所)で、朱子学以外の学問を教えることを禁じた |
| 取りしまり | 倹約をきびしく求め、政治を批判する本などの出版をきびしく取りしまった |
田沼の政治とのくらべ:
| くらべること | 田沼の政治(10ページ) | 寛政の改革 |
|---|---|---|
| 中心の人 | 田沼意次 | 松平定信 |
| 何にたよる | 商工業の力(株仲間・貿易) | 農業と年貢(農村の立て直し)・倹約 |
| ききん | 天明のききんで行きづまった | 囲い米でききんに備えた |
| 終わり方 | わいろの批判とききん | きびしすぎて反発を受ける |
人々の反発:「白河の清きに魚も住みかねて もとのにごりの田沼恋しき」は、白河藩主の定信のきびしい政治より、田沼のころのほうがよかった、という意味です。政治や社会を皮肉った、こっけいな短歌を狂歌といいます。
覚え方:「定信は囲い米と倹約、きびしすぎて反発」。
まちがえやすい
✕ 寛政の改革は、株仲間をすすめて商業で幕府の収入をふやそうとした → ◯ それは田沼の政治。寛政の改革は、農村を立て直し、倹約をすすめた
標準松平定信は、ききんに備えて大名に何をさせましたか。また、江戸に出てきていた農民には、どうしましたか。
表の「農村」の行を見ます。
答え:大名に米をたくわえさせた(囲い米)。農民には、お金をあたえて村へ帰した。
比べる田沼の政治と寛政の改革で、天明のききんのとき、または、そのあとの対応には、どんなちがいがありましたか。
表の「ききん」の行を見くらべます。
答え:田沼の政治は天明のききんで行きづまったが、寛政の改革は、囲い米でききんに備えた。
江戸時代の後半には、どんな学問が広まった? 国学・蘭学と寺子屋
📄 プリント12ページ
答え:日本の古典を研究する国学と、オランダ語でヨーロッパの学問を学ぶ蘭学が広まりました。町や村には寺子屋が各地にできて、読み書きのできる人がふえました。
8ページで、吉宗がヨーロッパの本の輸入を認めたことを学びました。
| 国学 | 蘭学 | |
|---|---|---|
| 学ぶこと | 日本の古典を研究して、仏教や儒教が伝わる前の、日本人の古くからの考え方を明らかにする | オランダ語で、ヨーロッパの学問や技術を学ぶ |
| 人物と成果 | 本居宣長が「古事記」を研究して「古事記伝」を書き、国学を大成した | 杉田玄白・前野良沢ら |
解体新書:1774年、杉田玄白・前野良沢らが、オランダ語の解剖書を翻訳して出版した本です。それまでの医学書より正確でした。伊能忠敬は、1800年から全国の海岸線を歩いて測量し、正確な日本地図をつくった人です。国学は、のちに天皇を尊ぶ考え方に影響をあたえました(くわしくは⑧)。
学ぶ場所:
| 藩校 | 寺子屋 | |
|---|---|---|
| 学ぶ人 | 武士の子 | 町や村の庶民の子ども |
| 学ぶこと | 藩がつくった学校で、武士に必要な学問を学ぶ | 読み・書き・そろばん |
寺子屋が各地にできて、読み書きのできる人がふえ、本を読む人もふえました。
覚え方:「宣長は国学、玄白は蘭学」。
まちがえやすい
✕ 国学は、オランダ語の本からヨーロッパの学問を学ぶ学問だ → ◯ それは蘭学。国学は日本の古典を研究する学問
標準次の①〜④は、国学と蘭学のどちらに当てはまりますか。 ① 日本の古典を研究する ② オランダ語でヨーロッパの学問を学ぶ ③ 本居宣長 ④ 杉田玄白
上の表の「学ぶこと」「人物と成果」の行と見くらべます。
答え:① 国学 ② 蘭学 ③ 国学 ④ 蘭学
標準解体新書が出版されたのは1774年、伊能忠敬が全国の測量を始めたのは1800年です。何年あとですか。
年の差:1800−1774=26(年)
答え:26年あと
化政文化は、元禄文化とどうちがう?
📄 プリント13ページ
答え:19世紀の初め、文化・文政のころ(11代将軍家斉)に、江戸の町人を中心に栄えた、皮肉やこっけいを好む文化を化政文化といいます。多色刷りの版画の錦絵が大量に刷られ、安く売られました。
12ページの寺子屋で、読み書きのできる人がふえました。19世紀の初めには、江戸の町人を中心に、新しい文化が栄えました。
| くらべること | 元禄文化 | 化政文化 |
|---|---|---|
| 時期 | 17世紀の終わり〜18世紀の初め | 19世紀の初め |
| 中心 | 上方の町人 | 江戸の町人 |
| 文学 | 井原西鶴・近松門左衛門 | 十返舎一九「東海道中膝栗毛」、曲亭馬琴「南総里見八犬伝」 |
| 俳諧 | 松尾芭蕉 | 小林一茶・与謝蕪村 |
| 絵 | 菱川師宣・尾形光琳 | 錦絵:葛飾北斎「富嶽三十六景」・歌川広重「東海道五十三次」・喜多川歌麿 |
川柳と狂歌:川柳(五七五)や狂歌(五七五七七の短歌)は、政治や社会を皮肉った短い詩です。人々の間で、伊勢参りなどの旅や、歌舞伎・寄席が楽しまれ、文化は地方にも広まりました。
覚え方:「化政は江戸、北斎・広重・一九」。
まちがえやすい
✕ 化政文化の浮世絵は、1枚ずつ手でえがかれたので、大名しか買えなかった → ◯ 多色刷りの版画(錦絵)が大量に刷られ、町人も安く買えた
標準次の人物は、元禄文化と化政文化のどちらの人物ですか。 ① 松尾芭蕉 ② 葛飾北斎 ③ 近松門左衛門 ④ 十返舎一九
上の表の人物の欄と見くらべます。
答え:① 元禄文化 ② 化政文化 ③ 元禄文化 ④ 化政文化
比べる元禄文化と化政文化では、文化の中心になった人々が、どうちがいますか。
表の「中心」の行を見くらべます。
答え:元禄文化は上方(京都・大阪)の町人が中心で、化政文化は江戸の町人が中心。
18世紀の終わりから、どんな外国の船が日本に来た?
📄 プリント14ページ
答え:18世紀の終わりから、ロシア・イギリス・アメリカの船が日本の近くに現れるようになりました。幕府は、1825年に異国船打払令を出し、北方の調査も進めました。
⑤で学んだ鎖国のもとで、外国との行き来は、決められた窓口に限られていました。ところが18世紀の終わりから、外国の船が近づくようになりました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1792年 | ロシアの使節ラクスマンが根室(北海道)に来て、通商を求める。幕府は断った |
| 1804年 | ロシアのレザノフが長崎に来る |
| 1808年 | イギリスの軍艦が長崎の港に入りこむ(フェートン号事件) |
| 1825年 | 幕府が異国船打払令を出す |
| 1837年 | 日本人の漂流民を送り届けに来たアメリカの商船(モリソン号)を砲撃して追い返す |
| 1839年 | 打ち払いを批判した蘭学者の渡辺崋山・高野長英が処罰される(蛮社の獄) |
異国船打払令:1825年、幕府が出した、日本に近づく外国船を打ち払うように命じた法令です。
北方の調査:幕府は、北方の守りを固めるため、蝦夷地や樺太を調べさせました。間宮林蔵は、樺太が島であることを確かめました。
覚え方:「ラクスマンは根室、打払令は1825年」。
まちがえやすい
✕ 異国船打払令が出されたのは、外国と貿易を始めるためだった → ◯ 外国船を打ち払い、鎖国を守るため
標準次のア〜エを、年代の古い順に並べなさい。 ア 異国船打払令が出される イ イギリスの軍艦が長崎の港に入りこむ ウ ラクスマンが根室に来る エ アメリカの商船が砲撃されて追い返される
上の表の年で並べます。ウ=1792年、イ=1808年、ア=1825年、エ=1837年です。
答え:ウ → イ → ア → エ
標準ラクスマンが根室に来たのは1792年、異国船打払令が出されたのは1825年です。何年あとですか。また、1792年と1825年は、それぞれ何世紀ですか。
年の差:1825−1792=33(年)
18世紀は1701〜1800年、19世紀は1801〜1900年です。
答え:33年あと。1792年=18世紀、1825年=19世紀
天保の改革は、なぜ失敗した?
📄 プリント15ページ
答え:1841年、老中の水野忠邦が天保の改革を始め、倹約や株仲間の解散などを行いましたが、上知令が強い反対で取りやめになるなどして、短い期間で失敗しました。幕府の力はおとろえ、雄藩が力をつけました。
- 1830年代:天保のききんが全国に広がり、百姓一揆や打ちこわしが各地で起こる
- 1837年:大塩平八郎の乱が起こる
- 1841年:天保の改革が始まる
大塩平八郎の乱:1837年、大阪町奉行所の元役人の大塩平八郎が、ききんで苦しむ人々を救おうと、大阪で兵をあげました。幕府が直接支配する大阪で元役人が反乱を起こしたことは、幕府に大きな衝撃をあたえました。
| 何をした | ねらい |
|---|---|
| ぜいたくを禁じ、倹約をきびしく命じた | ぜいたくをおさえる |
| 株仲間を解散させた | 物価を下げる(株仲間が値段をつり上げていると考えた) |
| 江戸に出てきた農民を、村へ帰らせた(人返しの法) | 農村を立て直す |
| 上知令:江戸や大阪の周りの領地を幕府の直接の領地にしようとしたが、強い反対で取りやめになった | 幕府の力を強める |
| 1842年、異国船打払令をやめ、日本に来た外国船に燃料のまきや水をあたえて帰すように方針を変えた | 外国との争いをさける |
1842年に方針を変えたのは、1840年に清がイギリスとのアヘン戦争に敗れたことを知ったからです(くわしくは⑦)。
失敗と雄藩:改革は短い期間で失敗し、忠邦は老中をやめさせられました。同じころ、薩摩藩(鹿児島県)や長州藩(山口県)などは、借金を整理し、特産物を藩が独占して売るなどして財政を立て直し、力をつけて雄藩とよばれました(くわしくは⑧)。
覚え方:「水野忠邦、株仲間を解散、上知令で失敗」。
まちがえやすい
✕ 天保の改革は成功し、幕府の力はふたたび強くなった → ◯ 上知令は反対で取りやめになり、改革は短い期間で失敗した。幕府の力はおとろえ、雄藩が力をつけた
比べる株仲間について、田沼意次の政治と水野忠邦の天保の改革では、それぞれ幕府はどのようにしましたか。
田沼意次は株仲間に特権をあたえて税を納めさせ(10ページ)、水野忠邦は物価を下げるために解散させました。
答え:田沼意次は株仲間をすすめ、水野忠邦は株仲間を解散させた。
標準1842年に、幕府が外国船への方針を変えたのは、何を知ったからですか。
1840年に起こった、清とイギリスの戦争です。
答え:1840年に、清がイギリスとのアヘン戦争に敗れたことを知ったから。
なぜ、幕府は何度も改革をしなければならなかった? 田沼意次と三大改革の方向性のちがい
📄 プリント16ページ(2〜15ページのまとめ)
答え:産業が発達して貨幣を使う暮らしが広まると、物価が上がり、年貢にたよる幕府の財政は苦しくなりました。農村では貧富の差が広がり、ききんのたびに百姓一揆や打ちこわしが起こり、18世紀の終わりからは外国船も近づきました。幕府はそのたびに改革を行いましたが、倹約や年貢をふやす改革は反発を受け、商業を利用する政治は批判とききんで行きづまったので、改革をくり返さなければなりませんでした。
享保・寛政・天保の改革(三大改革)と田沼の政治:
| 政治 | 中心の人 | 財政を立て直すやり方(方向) | 結果 |
|---|---|---|---|
| ① 享保の改革(1716年) | 徳川吉宗 | 倹約・上げ米・新田開発と年貢の取り方(出費をへらし、年貢をふやす) | 財政は一時立ち直るが、ききんで一揆 |
| ② 田沼意次の政治(1772年) | 田沼意次 | 株仲間に特権をあたえて税・長崎での貿易(商工業の力を利用) | わいろの批判と天明のききんで行きづまる |
| ③ 寛政の改革(1787年) | 松平定信 | 囲い米・農民を村へ・朱子学・倹約(農村を立て直す) | きびしい倹約と出版の取りしまりに反発を受ける |
| ④ 天保の改革(1841年) | 水野忠邦 | 倹約・株仲間の解散・上知令 | 短い期間で失敗。幕府の力がおとろえ、雄藩が力をつける |
方向性のちがい:享保・寛政・天保の改革(三大改革)は、どれも倹約をすすめました。享保の改革は年貢をふやす方向、寛政の改革は農村を立て直す方向、天保の改革は株仲間を解散させて物価を下げ、上知令で幕府の力を強めようとする方向でした。これに対して、田沼意次の政治は、株仲間をすすめて税を取り、貿易の利益を得るという、商工業の力を利用する方向でした。
理由:2〜5・9ページで見たように、農村に貨幣が広まり、都市では株仲間や両替商が力をもちました。幕府の収入の中心は年貢(米)のままだったので、収入が足りなくなり、改革をくり返したのです。
年表で確かめる:
| 年 | できごと | 年 | できごと |
|---|---|---|---|
| 1680年 | 綱吉が5代将軍になる | 1787年 | 松平定信が寛政の改革を始める |
| 1716年 | 吉宗が享保の改革を始める | 1792年 | ラクスマンが根室に来る |
| 1742年 | 公事方御定書が定められる | 1825年 | 異国船打払令が出される |
| 1772年 | 田沼意次が老中になる | 1837年 | 大塩平八郎の乱 |
| 1774年 | 解体新書が出版される | 1841年 | 水野忠邦が天保の改革を始める |
| 1782年 | 天明のききんが始まる | 1842年 | 外国船に燃料と水をあたえる方針に |
まちがえやすい
✕ 幕府の改革は、どれも商業の力を利用して収入をふやそうとした → ◯ 商業の力を利用したのは田沼の政治。享保・寛政・天保の改革は、倹約をすすめ、年貢や農村の立て直しなどを中心にした
比べる田沼意次の政治は、享保の改革や寛政の改革と、幕府の収入のふやし方・財政の立て直し方がどうちがいましたか。「商工業」「年貢」の2つの語を使って書きなさい。
田沼意次は、年貢だけにたよらない政治でした。享保の改革は年貢をふやし、寛政の改革は農業と年貢(農村の立て直し)にたよりました。
答え:田沼意次の政治は商工業の力を利用して収入をふやそうとしたが、享保の改革や寛政の改革は、年貢や農村の立て直しを中心にした。
標準田沼意次の政治が始まったのは1772年です。享保の改革の始まり(1716年)から何年あとですか。また、寛政の改革の始まり(1787年)は、田沼意次が老中になって何年あとですか。
享保の改革から:1772−1716=56(年)
田沼意次が老中になってから:1787−1772=15(年)
答え:享保の改革から56年あと。寛政の改革は老中になって15年あと
✅ 一問一答で総チェック(20問)
問題を読んで、答えを頭の中で言ってからタップしましょう。答えが出ます。
-
年貢をふやすために、用水路をつくったり、海や沼地を干拓したりして、新しい田畑を開いたことを何といいますか。
答え:新田開発
-
19世紀の初め、江戸の町人を中心に栄えた、皮肉やこっけいを好む文化を何といいますか。
答え:化政文化
-
稲の穂から、もみをこき落とすのに使われた農具を何といいますか。
答え:千歯こき
-
いわしを干してつくり、お金で買って使うようになった肥料を何といいますか。
答え:干鰯
-
自分たちで食べるためではなく、売ってお金にするためにつくる作物を何といいますか。
答え:商品作物
-
オランダ語で、ヨーロッパの学問や技術を学ぶ学問を何といいますか。
答え:蘭学
-
「天下の台所」とよばれ、諸藩の蔵屋敷が置かれた、商業の中心の都市はどこですか。
答え:大阪
-
同じ商売の商人がつくり、税を納める代わりに営業を独占することを認められた組合を何といいますか。
答え:株仲間
-
江戸の日本橋を起点に整えられた、東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の道を何といいますか。
答え:五街道
-
酒田から日本海と瀬戸内海を通って大阪へ向かった航路を何といいますか。
答え:西廻り航路
-
5代将軍の綱吉が、武力でおさえる政治から変えた、学問や礼儀を重んじる政治を何といいますか。
答え:文治政治
-
元禄文化で、人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本「曽根崎心中」を書いた人物はだれですか。
答え:近松門左衛門
-
1716年、8代将軍となり、享保の改革を始めた人物はだれですか。
答え:徳川吉宗
-
大名に石高に応じて米を幕府に納めさせ、その代わりに参勤交代で江戸にいる期間を短くしたことを何といいますか。
答え:上げ米
-
田畑を買い集め、貸して小作料を取る、豊かな百姓を何といいますか。
答え:地主
-
米の値段が上がって苦しんだ都市の人々が、米を買いしめた商人の家などをおそったことを何といいますか。
答え:打ちこわし
-
1772年に老中になり、株仲間をすすめて商工業の力を利用した人物はだれですか。
答え:田沼意次
-
1787年に老中となり、寛政の改革を始めた人物はだれですか。
答え:松平定信
-
1841年に老中として天保の改革を始め、株仲間を解散させた人物はだれですか。
答え:水野忠邦
-
1825年に幕府が出した、日本に近づく外国船を打ち払うように命じた法令を何といいますか。
答え:異国船打払令
まとめ
江戸時代の中ごろ、農業の発達(新田開発・新しい農具・商品作物)、漁業・鉱山・特産物、三都や五街道・航路の整備で、町人が経済力をつけ、元禄文化が上方で、化政文化が江戸で栄えました。一方で、貨幣を使う暮らしが広まり、物価が上がって、年貢にたよる幕府の財政は苦しくなりました。吉宗の享保の改革(1716年)は年貢をふやす方向、田沼意次の政治(1772年)は商工業の力を利用する方向、松平定信の寛政の改革(1787年)は農村を立て直す方向、水野忠邦の天保の改革(1841年)は株仲間の解散や上知令で幕府の力を強めようとする方向でしたが、どれも長続きしませんでした。18世紀の終わりからは外国船が近づき、幕府の力はおとろえて雄藩が力をつけました。プリントの確認問題で、年号と用語を手を動かして練習してみてください。
無料ダウンロード(登録不要)
▶ 産業の発達と幕府政治の改革 授業用プリント(全22ページ)
説明 1〜16ページ/確認問題 17〜19ページ/覚えることの一覧 20ページ/答えと解説 21・22ページ

コメント